1927年11月12日~1958年11月17日
今から60年前、360年もの間誰にも証明することができなかったフェルマーの最終定理の解決に大きな役割を果たした2人の日本人がいた。
人生
生誕~青年期
1927年、埼玉県 加須市にて医者の子として生まれる。幼いころから病弱であり、学校も休みがちであったが頭は非常に良かったため試験の成績のみで学生時代は進級していた。
1945年には名門である旧制浦和高等学校(どれくらい名門だったかというと、当時の東大への進学実績が全国2番目だった)に入学するも、前述の通り身体が弱かったため2年間休学をして1950年にやっと卒業し、東京大学理学部に進学した。このころに世界的にも活躍していた数学界の大御所、高木貞治の著した『近世数学史談』に多大な影響を受け、数学を学ぼうと決意したという。そのため東大ではもっぱら数学の勉強に励んでいた。東大卒業後は同大学に務め、教養学部にて若者たちに数学を教えた。
代数的整数論国際会議
谷山は盟友の志村五郎と共に国際的な数学のシンポジウム(討論会)を開催したいと考えており、多方面に呼びかけていた。1955年、2人の働きもあり、栃木県日光にて「代数的整数論国際会議」が開かれる。これは規模で言えば外国から招待された数学者はたったの9人と、非常に小さなものであった。しかし、その招待された全員が当時の数学界をリードしていた数学者たちであった。ここで谷山はかの有名な「谷山-志村予想」を提出した。(詳細は後述)
突然の自殺
1958年、谷山は31歳の若さで東大助教授に就任し、5月には理学博士になった。10月には婚約も決まっており、世界で最も優れた学問の研究機関、アメリカのプリンストン高等研究所へも招待された。まさに人生の絶頂期であった。そんな中東京池袋の自宅にてガスを使い自殺してしまう。享年31歳。遺書は残されており、このように書かれていた。
「昨日まで、自殺しようという明確な意思があったわけではない。 ただ、最近僕がかなり疲れて居、 また神経もかなり参っていることに気付いていた人は少なくないと思う。 自殺の原因について、明確なことは自分でもよくわからないが、 何かある特定の事件乃至事柄の結果ではない。 ただ気分的に云えることは、将来に対する自信を失ったということ。 僕の自殺が、或る程度の迷惑あるいは打撃となるような人も居るかもしれない。 このことが、その将来に暗いかげを落とすことにならないようにと、心から願うほかない。 いずれにせよ、これが一種の背信行為であることは否定できないが、 今までわがままを通してきたついでに、最後のわがままとして許してほしい。(中略) いずれにせよ、駒場の方々にかなり御迷惑をお掛けすることになるのをお詫びしたい。」
遺書には図書館から借りた本や研究室の鍵、私物の処分、金銭関係、大学での講義についてのことなどが書かれていた。
谷山の婚約者も
「私たちは何があっても決して離れないと約束しました。彼が逝ってしまったのだから、私もいっしょに逝かねばなりません」
と遺書を残し谷山の背広を傍らに置いたままガス自殺をした。
現在、2人の墓は埼玉県加須市の善応寺にある。
業績
谷山の研究は谷山が先導し、それに志村が協力したり補強するような形で2人の共同作業によるものが多い。
虚数乗法論やアーベル多様体の高次元化など(ちんぷんかんぷんだと思うが、大学で数学に詳しい方ならわかるはず)多数に及び、特に前者はその功績により世界に名が知れ渡った。しかし、谷山の功績の中でもっとも有名なものはやはり360年、誰も証明できなかったフェルマーの最終定理の証明の鍵となった「谷山-志村予想」であろう。
「谷山-志村予想」
これの内容は
「ある楕円方程式のE系列は、おそらくどれかの保型形式のM系列になっているのではないか」
というものであった。
これは当時の数学界からしたらとんでもない予想であり、「本当にそんなことあるの?」という風に見られていた。しかし、志村はこの理論を信じ、研究し、発展させ続けていた。
そして1984年、「谷山-志村予想を証明すれば、フェルマーの最終定理の証明できる」という説がドイツの数学者によって出される。しかし、肝心の「谷山-志村予想」が難しすぎたため誰も証明することができなかった。
しかし1993年、イギリスのアンドリュー・ワイルズが「谷山-志村予想」の証明に成功し、この証明を糸口としてフェルマーの最終定理も証明された。
人物
- 遺書に借りた本についても書かれている通り、読書家であった。
- 婚約者とはシェイクスピアの作品を読むサークルで知り合った。
- 志村五郎は谷山について「谷山はたくさんの間違いを犯す、それもたいていは正しい方向に間違うという特別な才能に恵まれていた。私はそれがうらやましく、真似してみようとしたが無駄だった。そうしてわかったのは、良い間違いを犯すのは非常に難しいということだった。」と評している。
補足
彼の本名の読みは本来「たにやま とよ」なのだが、「ゆたか」と読み間違えられることが多いためいつしか彼自身も自分の名前を「たにやま ゆたか」と呼んでいた。そのため、海外では彼の名前は「タニヤマ・ユタカ」として知れ渡っている。