プロフィール
概要
プロ入り前
小学校の1年時に、捕手として野球を始めた。当時のチームメイトに、実家が隣同士で2歳年下の山本由伸がいた。当時は山本も捕手だったため、キャッチボールではいつも山本と一緒だったという。
中学校在学中には、ボーイズリーグの瀬戸内マリナーボーイズに所属。
岡山理科大学附属高等学校への進学後は、1年夏からのベンチ入りを経て、1年秋から「4番・捕手」としてレギュラーに抜擢。2年時に春の岡山県大会で優勝したが、在学中は春夏とも甲子園球場の全国大会と縁がなかった。
強肩強打でNPB球団から注目されるほどだったが、プロ志望届を日本学生野球協会へ提出せず、亜細亜大学経営学部へ進学。
大学では、1年時の東都大学野球春季リーグ戦から正捕手に抜擢、秋にはリーグ戦と第46回明治神宮野球大会で優勝を経験するが2年時に正捕手の座を失った。
3年時の春季リーグ戦で12試合に出場、打率.386、3本塁打、13打点という好成績で、捕手としてベストナインに初めて選出。
4年時には主将を務め、また第42回日米大学野球選手権大会と第29回ハーレムベースボールウィークで、大学日本代表の4番打者を務めた。
2018年のNPBドラフト会議では、捕手ではなく、三塁手へのコンバートを想定して内野手としてオリックス・バファローズから2巡目で指名。ここで山本由伸と再びチームメイトになった。背番号は44。
オリックス時代
2019年には、オープン戦全17試合の出場で規定打席に到達。16試合で三塁を守りながら2本塁打を放ったことを背景に、レギュラーシーズンの開幕一軍入り。
3月29日に、北海道日本ハムファイターズとの開幕戦(札幌ドーム)で、「5番・三塁手」としてスタメンで公式戦にデビュー。第1打席で、公式戦での初安打・初打点を上沢直之からの2点適時打でマーク。(一軍の公式戦で開幕からクリーンナップに起用された事例は、阪急時代の1957年の中田昌宏以来62年ぶり)
4月18日にほっともっとフィールド神戸で催された同カードで公式戦初本塁打を放ったことを皮切りに、2本塁打を記録したが5月に打撃不振で5月1日に入団後初めて出場選手登録を抹消。
三塁手として不慣れな守備で失策を重ねたばかりか、打撃にも悪い影響を及ぼしていたため一軍と二軍を往復。
6月28日の対埼玉西武ライオンズ戦(メットライフドーム)7回表の打席で二塁打を放った後の走塁中に、右足の舟状骨を疲労骨折。シーズンを長期離脱した。終了後に捕手に復帰。
2020年には、登録ポジションを内野手から捕手へ変更。新型コロナウイルスへの感染拡大の影響でレギュラーシーズンの開幕が当初の予定から延期されていた4月に、大学時代の同級生と結婚。しかし7月1日のウエスタン・リーグ(対中日ドラゴンズ戦)での打席中に、自打球が左足に当たった影響で腓骨を骨折。
2021年に2022年は、捕手・一塁・指名打者を兼任して自己最多の81試合に出場。11本塁打を打ち、捕手で34試合、シーズン終盤には一塁で38試合に出場。終了後、森友哉の加入が決定したものの、捕手で勝負することを宣言。
しかし2023年中嶋聡監督が捕手を森・若月健矢・トレードで加入した石川亮の3人体制を基本とし、頓宮は捕手を使い切ってしまった時の緊急要員とする方針となったため、6月までの時点で捕手での出場がなく、すべて一塁手または指名打者として出場。9月22日までにシーズンの規定打席に達し、リーグトップの打率.307を記録したが、同年9月23日に左足薬指中足骨の疲労骨折を起こし、今シーズンの復帰は絶望的になるも10月9日の段階で自身初のタイトルとなる首位打者を事実上確定させ、2位の近藤健介(ソフトバンク)と4厘差で、シーズン全日程終了をもって獲得。(打率.307は首位打者としては1976年の吉岡悟(太平洋)の.309を下回るパ・リーグ史上最低打率で、1リーグ時代を含めても史上5番目に低い打率。また、史上4人目の「首位打者&盗塁0」を記録。)