略歴
高校に通いつつ、二科会の美術研究所で東郷青児に絵画を学び、19歳の時にアルバイトとして東宝撮影所に入所。当初はビルのミニチュアに汚しを入れる作業をしていたが1957年、円谷英二の勧めで室内合成光学作画を担当。『地球防衛軍』以降、東宝特撮の光線の表現を確立。
その後、円谷プロダクションでウルトラマンのスペシウム光線や怪獣が出す光線や火炎、ロケット噴射などの合成を担当した。
1959年に特殊技術課が設立され、東宝に社員登用される機会があったが、飯塚はこれを固辞して技能契約者として年間契約で参加するかたちとなった。辞退した理由としては、大企業では学閥が優先されるという考えや、特撮の仕事がなくなった場合に事務職などは務まらないという考えであったことを挙げており、自身の技術で仕事をしなければならないという想いだったと述懐している。
2023年、3月24日、誤嚥性肺炎のため死去。享年88歳。 ちなみに死去した2日前は『帰ってきたウルトラマン』の主人公の郷秀樹役を演じた団時朗も死去している。
作風
上述の通り、東宝特撮において光線技の表現を確立。キングギドラの引力光線は太平洋戦争中に間近で目撃した米軍機の曳光弾射撃が参考になったという。
『宇宙大戦争』の時にロケット噴射を派手に描いたところ、円谷から「宇宙空間でそんなでかい噴射が出るか」と怒られたうえ、その後も何百枚も没にされて流石に怒りそうになったが、結局は納得してくれるまで粘ったという。
円谷からの発注は「感じを作れ」という一言のみで、自身の経験の引き出しから何を使うか考える必要があったと語っている。また、円谷は仕上がったものに注文をつけることが多く、直接褒められることは一度もなかったとい。これまでで最も難しかった合成として、キングギドラの引力光線を挙げている。また当時は円谷に従順なスタッフが多い中、飯塚氏は楯突くことが多かったという。それに対して円谷も怒ったり怒鳴ったりすることもあったが、その翌日にはコーヒーをご馳走してもらえたという。
東宝の契約では他社での仕事は禁止されていたが、円谷の依頼で参加した『ウルトラマン』をはじめ、第一次怪獣ブームのころは大映の『ガメラ』、日活の『大巨獣ガッパ』、松竹の『宇宙大怪獣ギララ』などの他社作品の合成も多数手がけたが、飯塚によれば当時は東宝側も円谷の威厳により何も言わなかったという。
晩年にも光学作画を手掛け続け、『ウルトラマンX』のグリーザの光線はペンタブを使いこなして作画するなど、時代に合わせて技術のアップデートを続けていた、
特技監督の中野昭慶は、飯塚は明るく茶目っ気があり、クランクアップ前の多忙な時期でも現場を明るくしていたと証言している。一方、痔を患っていたため、一日中座りっぱなしの作画作業では顔をしかめていることもあったという。