概要
事件発覚から犯人特定
1932年(昭和7年)2月8日、愛知県名古屋市中村区米野町の鶏糞小屋で、身元不明の遺体が見つかった。
遺体は見るに耐えない程無惨であった。
頭部が持ち去られており、体にもいくつもの欠損部分があり、かろうじて女性と判断出来る状態だった。
警察は当初、近辺に遊郭があった為、遊女の遺体と推測したが、近隣住民への聞き込みや現場近くに落ちていた恋文などから名古屋市内で青果業を営む家庭の次女(19歳)と判明した。
また被害者と恋愛関係にあった和菓子職人「増淵倉吉(44歳)」を犯人とし、指名手配を行った。
浮かび上がる犯人の異常性
2月10日発行の名古屋新聞によると、増淵は群馬県出身で、幼少期から信心深く、死後の世界を信じていた。
上京後に浅草にて菓子店を開いていたが、関東大震災(1923年)の影響で、店を失い、妻子を捨てた後大阪へと転居。旅路にて知り合った後妻と再婚した。
だが、大阪の土地で上手くいかなかった増淵はしばらくして名古屋へと渡った。
その後、妻は裁縫教室を開き、自身はまんじゅう工場で働くき、その裁縫教室に被害者(当時16歳)は花嫁修業のため通っていた。1929年(昭和4年)妻の様態が悪化。教室を閉めた後も師を慕っていた被害者のみ彼女の元へ見舞いに訪れていた。しかし1931年(昭和6)妻は病死。
増淵は献体として妻の遺体が解剖されていく姿を、目を逸らすことなく見届けたとされる。
まんじゅう工場を辞めた彼は被害者と関係を持つようになる。
その後再び上京するもすぐに名古屋に戻った。
被害者とは相思相愛だったようだが1月22日頃に殺害したとされる。
事件から3日たった2月11日、愛知県犬山市内の木曽川にて首が発見された。
首も損傷が酷く、頭皮が剥ぎ取られ目がえぐり取られて下顎が激しく損傷、触ると肉が崩れるようだった。
また奇妙なことにアルミニウム製のヘアピンと男性用のメガネが粉々になっていた状態で放置されていた。
一説には、信心深い増淵は何らかの儀式を行ったものとも推測されたが真相は定かではない。
これにより警察は捜査本部を犬山市に移管させたが結局犯人の行方はわからなかった。
それに加え、3月になれば犬山の行楽シーズンになり多くの人が訪れる為、警察は焦りを感じていた。
が、3月5日、とある茶屋の主人が別棟が内側から鍵が閉まっているのを不審に思い解錠すると中に首吊り死体があった。
通報を受けた警察が向かうとそこには増淵が首を吊って死んでいた。
だが、その死体は腐乱しているのに加え、あまりに異形な出で立ちからある者は精神を病んでしまったという。
増淵は被害者の下着を身に纏い頭から被害者の頭皮を被って死んでいたのである。
また財布の中からは被害者の眼球が発見された。
被害者の体の一部は見つからなかった為、食べてしまったと考えられた。
以上が「首なし娘事件」である。
戦前の殺人事件の中では知名度は津山事件(1938年)や青ゲット事件(1906年)に比べると低いが異常性は高い。
結局犯人の殺害動機もその常軌を逸した行動に至った経緯も不明である。
なお、この事件は江戸川乱歩の小説『陰獣』になぞらえて「陰獣事件」とも呼ばれるが、小説と事件の関連性は一切無い。