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H-21

えいちにーいち

1940年代に開発された初期のヘリコプターで、開発はパイアセッキ社による。救難機や貨物・人員輸送など、多目的に用いられた。前後ローターが干渉しないように胴体が「く」の字に折り曲げられ、独特の形態から『フライングバナナ』と呼ばれた。公式な愛称はH-21C前後でそれぞれ「ワークホース」「ショーニー」。
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ドラゴ・ジョバノビッチの双ローター式ヘリコプター ~フライングバナナの前身まで~編集

パイアセッキのはじまり編集

パイアセッキ・ヘリコプター社は、1940年にフランク・パイアセッキが設立したP-V工学会議が祖である。1943年4月に初飛行した技術実証機PV-2は、ボート・シコルスキーVS300に続くアメリカ2番目の成功作と評価され、とくに現代のヘリコプターにつながる飛行制御技術には大きな影響をもたらした。


初めてのタンデムローター編集

続いてパイアセッキではPV-3という試作機を制作したが、その大きな特徴はタンデムローター式ヘリコプターである事だった。


タンデムローター式は、機体前後端に配置されたローターを互いに逆回転させて回転の反動を抑える仕組みで、重心の許容範囲が広く、飛行も安定している特徴がある。テールローターで反動を抑える通常の仕組みと違って、ローターの出力をすべて機体の浮上に使うことができ、重量物・嵩高貨物の輸送には有利な構造である。


初めてのタンデムローター式ヘリコプターはジョバノビッチJOV-3(1948年初飛行)で、これを大型化したマックロッチMC-4はYH-30として軍用評価にも供された。しかし初期の機ということで、能力は不足しており、受注を得ることはできなかった。


ちなみに、このタンデムローター配置はドラゴ・ジョバノビッチ(設計者)の特許であり、主にアメリカで開発がすすめられた。イギリスではブリストル「ベルヴェデア」だけが実用化に至り、ソビエトに至っては試作・少数生産より先には進まなかった。タンデムローター式ヘリコプターは、アメリカ独特のノウハウだという事もできるだろう。


「ドッグシップ」の誕生編集

1944年2月、パイアセッキは海軍と新型タンデムローター式ヘリコプターの開発契約を結んだ。

このヘリコプターは、プラット&ホイットニーR-1340「ワスプ」星型レシプロエンジン(600ps)を動力源としており、胴体は前後ローターの干渉を防ぐため、中央やや後方から「く」の字に曲がるという、マックロッチMC-4よりも極端な恰好になった。


胴体は鋼管フレームに帆布張りで出来ていて、テスト中の写真にはフレームだけで飛行しているものもある。テスト初期は自動車用トランスミッションを流用していたために不具合が続出したが、その後新設計の専用品が使われるようになり、海軍はXHRP-1として評価試験を行った。


海軍ではこれを救難機として採用することにし、HRP-1「ハープ(HRPをそのまま読んだもの)」として35機発注した。しかし独特の恰好はハープというよりも、すぐにバナナにも連想されて、HRPはさっそく「フライング・バナナ」と呼ばれるようになった。発注こそ海軍だったが、その多くは海兵隊や沿岸警備隊に配備され、のちに3機は沿岸警備隊向けの増加配備機HRP-1Gとして差し向けられた。


HRPも初期の機なので、性能そのものはちょっとしたスポーツ機程度であったが、ヘリコプターならではの使い勝手は評価されており、この好評から後継機開発に期待がかけられた。


フライング・バナナは2代目へ編集

H-21の登場編集

1949年、パイアセッキ社はアメリカ空軍へ、HRPから発展したYH-21を売り込んだ。

YH-21は胴体が帆布張りだったHRPを全金属製とし、エンジンも胴体も大型化したといった風で、より実用的になった救難機である。基本的な設計もHRPを踏襲しており、湾曲部やや後方にエンジンを、主脚周辺部に燃料タンクをおさめてある。


H-21Aのエンジンはカーチス・ライトR-1820レシプロエンジン(1150馬力)で、スピードは最大200km/hへ、搭載量は人員なら最大22名搭乗させるまでになった。H-21Bは燃料タンクなどが限定的に防弾化された。重量化した分エンジンにもパワーアップが図られ、1450馬力となった。


働くワークホース編集

1952年、H-21は初飛行に成功し、アメリカ空軍はH-21A/Bを救難機として、または極地のレーダー基地整備用として運用した。H-21はそれまでの機と違って搭載力があり、且つどこでも離着陸できる能力は重宝された。この能力はカナダ空軍でも注目され、6機のH-21Aを配備している。


新職種への挑戦編集

同じく1952年、海兵隊も強襲目的にH-21へ注目し、評価試験が行われた。

これはヘリコプターにタグボートとしての役割を実験したもので、そこそこの成績を収めている。


当時としては大型で、機内容積を輸送機として使えるということは、戦場における輸送トラック代わりとしての用法も考えられ、ベトナムでは初期の輸送ヘリコプターとして活躍した。


戦場の空に飛ぶバナナの騎行編集

H-21はヘリコプターが「お目見え」する初期の機であり、実用化とともに様々な構想が生み出された。中にはヘリコプターを複数使い、より大型の貨物を吊り下げ輸送する事も考え出されたが、これは実用に至らなかった。


軍隊が運用するので、海上など救難機として使うだけでなく、戦場で使うことも当然考えられた。フランスはアルジェリア紛争でH-21を機銃掃射用として武装し、実戦投入したが『戦場ではもっと小回りが利いて、標的にもなりにくい機が有効』とされ、不向きとされてしまった。


これはベトナム戦争における評価にも共通しているが、このテの大型ヘリコプターには、その大きさをもっと有効に活用できる用法があった。戦場における「空飛ぶトラック」こと、輸送ヘリコプターとしての用法である。


フランス編集

上記のアルジェリア紛争である。

アルジェリア紛争ではアルジェリア民族解放戦線(FLN)によるゲリラ攻撃やテロ作戦が横行しており、本格的・大規模な軍事作戦で対抗するというよりも、対抗側にも小規模・頻繁な対抗が求められるようになった。


このために生まれたのが、植民地現地にあった練習機輸送機をそのまま流用して武装化したCOIN機である。またフランス軍は、現地に持ち込んだ輸送ヘリコプター(の余分)も武装し、地上部隊の支援に充てた。これがH-21の「初実戦」となった。


アルジェリアでは、搭載力を生かしてロケット弾重機関銃で武装が施されたが、大型ならではの操縦性や慣性のおかげで対地攻撃にはあまり向いておらず、結局は武装を減らして輸送ヘリコプターとして使われる事の方が多くなっていった。


アメリカ編集

1961年12月、南ベトナムに介入したアメリカ陸軍が「軍事顧問団」とともに派遣した。

H-21はこの戦争初期において、輸送ヘリコプターとして活躍するが、もともと寒冷地を想定して開発されていたので、熱帯性気候の現場では不具合続きだった。


実例を挙げれば、

・本来は21人乗りだが、9人乗りでないと離陸できない。

・高温多湿なのでエンジンの効率が落ち、その高負担からエンジン寿命が3分の1に。

・戦闘を想定していない設計なので、被弾・損害に弱い。


こういった問題は、さすがに現場の工夫などでは十分対処できず、より新しい設計の機でなければ対応できなかった。


『バナナはどこへ行ったかな?』編集

こうして初期ならではの奇妙さと、実は考え抜かれた構成で成り立った「フライング・バナナ」は、世界各地の博物館で見られるだけになった。当時「これしかなかった」という事情もあって、西側諸国を中心に現存機は多く、アメリカは当然のこととしてカナダやドイツ、スウェーデンにフランス、研究用としてソビエトも購入しており、そして日本でも保存されている。


現在のような軍用ヘリコプターに繋がる、一番の大活躍はやはりベトナム戦争で、1961年から第8軍に配備・派遣されている。輸送用などにCH-21C(H-21B)は重宝されたものの、熱帯地でのエンジン出力低下は避けられず、また防弾が不十分だった事から損害は避けられなかった。


しかしこれはエンジンを、未だレシプロエンジンとしていた事が大きい。実用に耐える性能で、さらに戦場で生き残るヘリコプターを作るとなると、どうしても高性能と重武装、重装甲が同時に求められてしまう。レシプロエンジンでは出力不足になってしまうのである。


ジェットエンジンの進化とともに、60年代に入ってくるとヘリコプターにもタービンエンジンを持った後継が実用化するようになった。1964年にUH-1、翌65年には同じタンデムローター方式CH-47が配備されるようになり、こうして大型運搬ヘリコプターの基礎を築いたH-21は、同じく先駆者として汎用ヘリコプターの道を切り開いたH-34とともに、後進に道を譲って姿を消していった。


そして、この機を開発したパイアセッキ・ヘリコプター社は、1955年にバートル・ヘリコプター社に社名が変わり、1960年にはボーイングに買収されてボーイング・バートル・ヘリコプター社となった。パイアセッキ・ヘリコプター社は、レシプロエンジン式ヘリコプター時代の終焉とともに消えていき、続くCH-46CH-47ではエンジン形式の変更によって、エンジンを胴体上部に据え付けることができるようになった。


現在では必ずしもエンジンと人間が同居する必要はなく、むしろ防火のため完全隔離されるようになった。奇妙に胴体の折れ曲がったヘリコプターは当時の「必要」だったのであり、現在ではこれも記念碑となっている。


イワンの奇妙なヘリコプター編集

ソビエトではタンデムローター式ヘリコプターを1種類しか開発していない。

Yak-24「ホース」という機だったのだが、前後ローターの共振により開発は一時停止しており、その間に同じく開発されていたMi-6「フック」の方が多く使われて活躍の場を失った。


H-21は「バナナのようだ」という意味で奇妙な機だったが、本当に奇妙なヘリコプターはやはりソビエトにあった。それがMi-32という重量物運搬用ヘリコプターで、これは空飛ぶ巨大な三角定規である。惜しくも計画だけで終わったが、最大離陸重量140tといい、他にまったく類を見ない巨大機となっている。なお、計画だけと言われていたが『セカンドインパクトから15年後に飛行する姿が目撃された』と称する、まことしやかな伝説が残されている。


参考記事編集

H-21

H-21(英語版)

HRP

HRP(英語版)

パイアセッキPV-2(英語版)

パイアセッキ・ヘリコプター社

パイアセッキ・ヘリコプター社(英語版)

マックロッチMC-4(英語版)

ドラゴ・ジョバノビッチ(英語版)

タンデムローター(wikipedia)

タンデムローター(wiblio辞書)

アルジェリア戦争

Yak-24

Mi-6

Mi-32

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