概要
明治29年(1896年)8月27日に裕福な質屋の子として生まれる。実家は仏教の信仰が篤い家庭で、父は熱心な門徒(浄土真宗)であったが、賢治自身は法華経を信奉するようになった。
地元の農学校教師になって農業の向上に努力し、その傍らで多くの詩や童話を書いた。その後学校を退職して羅須地人協会を設立、芸術と農業を結びつける農村文化の創造を説くが、賢治の理想は一部の若者にしか支持を得られず、社会主義運動との関連を疑った警察の事情聴取を受けて事業継続を断念。肥料会社の営業マンに転じ、過労から肺炎を患って昭和8年(1933年)9月21日に亡くなった。享年37歳。
人物
- 幼い時に冷害で苦しむ人々が家財を売りに来る様子を見ており、その後の人格や作品の形成に大きな要因となった。
- 童話や自然を好み、とくに鉱物への関心は強く「石っこ賢さん」と呼ばれていた。
- 政治的には社会主義を支持しており、無産政党の労農党の支援者であった。
- 妹のトシは賢治にとって良き理解者であり可愛がっていたが、病気によって短命に終わり、トシの死に際を詩にしたほど大きな衝撃となった。賢治の女性観や恋愛観にも大きな影響をもたらし、また病弱なわが身を憂いて、異性を意識することはあっても、生涯独身を貫いた。
- 賢治は完成した作品に何度も修正を加えることが多く、「永久の未完成これ完成である」という記述も残しており、未完成作品が多いのもそれゆえとされている。
- 法華経への強い信心から、度々両親と反発を招き、作品にも仏教的要素が色濃く反映されている。
- 体が弱っていった遠因としては、信仰心の篤さからくる極端な菜食主義にもあるらしく、特に晩年は生臭を口にすることを避ける傾向が強くなっていったという。
評価
地元では生前から有名人であったが、「夢想家のお坊ちゃん」として冷ややかに見ていた人も多かったという。作家としては生前は無名に近く、ほとんどの発表作品は売れず、未発表や未完成が多い。
没後になって、主に詩人の草野心平の努力で世間から知られるようになり、独特の世界観と作品群に評価が高まり、戦後は国民的作家扱いされるまでになった。
ただ、最近の研究では、生前から草野以外の詩人にも注目されており、生前の同時代的影響も皆無ではなかったことが明らかになっている。例えば中原中也が賢治の『春と修羅』に衝撃を受け、自作に生かしたことが判明している。
代表作品
銀河鉄道の夜 注文の多い料理店 風の又三郎 セロ弾きのゴーシュ 雨ニモマケズ グスコーブドリの伝記 春と修羅 やまなし よだかの星 星めぐりの歌 猫の事務所 どんぐりと山猫など