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田中頼三の編集履歴

2015-05-03 11:52:14 バージョン

田中頼三

たなからいぞう

大正から昭和の太平洋戦争期にかけての海軍軍人、最終階級は海軍中将。

太平洋戦争開戦時の第二水雷戦隊司令官、山口県出身。生粋の駆逐艦乗りで優秀な水雷屋として名を馳せていたが、慎重でマイペースな指揮を行うことから敢闘精神を重視する上層部からは嫌われていた。さらに世界最強の水雷戦隊という矜持に満ち過ぎた部下たちからも同様に反発されており、戦中及び戦後しばらくは双方の証言と著作が原因で低い評価を受けていた。


経歴

太平洋戦争前

1892年(明治25年)4月27日に山口県山口市の本間家の三男として誕生し、旧制中学卒業後に同じ山口市の田中家の養子になる。その後、海軍兵学校に入学し41期生で卒業する。同期生に日本海軍屈指の水雷戦隊司令及び艦隊指揮官の木村昌福中将甲標的開発に深く関わり産みの親と称される原田覚中将、硫黄島の戦いにて『ルーズベルトニ与フル書』をしたためて戦死した市丸利之助少将(死後中将に特進)などが居る。


第一次世界大戦時は地中海に派遣されることになった第二特務艦隊司令部に、田中は実践派の水雷戦専門家として招聘されている。余談ながら第二特務艦隊は、第一次世界大戦で海外に派遣された日本艦隊の中で潜水艦の雷撃を受けるなど最も危険な任務に就いている。その活動はわずか1年半程度であるが連合国側の各国元首から賞賛され、マルタ島のイギリス海軍墓地には戦死者の慰霊碑が建立されている。


太平洋戦争開戦

開戦直前に第二水雷戦隊の司令官に着任した田中は、最新鋭の陽炎型駆逐艦を始めとした精鋭駆逐隊を指揮下に置き、主に旗艦である神通に座乗している。

開戦後はフィリピン東南アジア方面での侵攻作戦に従事し、スラバヤ沖海戦にも参加している。ミッドウェー海戦ではミッドウェー島攻略担当の第二艦隊(旗艦、愛宕)の護衛隊として参加しているが、南雲機動部隊の壊滅により作戦続行不可能となり撤退となった。


ガダルカナル島の戦い

ガダルカナルを巡る戦いでは過酷な状況下での索敵や輸送作戦に従事することとなり、第二次ソロモン海戦では神通が空襲により中破している。この頃、田中は上層部及びガダルカナル島上陸部隊と戦術を巡って対立しており、第三水雷戦隊と上陸部隊護衛任務を交代することとなる。ただし第三次ソロモン海戦時に、田中は海戦後の状況が混乱としているスキに輸送船を故意に揚陸地点に座礁させて将兵と物資の揚陸を短時間で完了するという奇策(ただし、浜辺から運び出しきれなかった物資や兵器は夜明け後に空襲を受けて失われている)を用いており、同方面での輸送作戦は引き続き任されていた模様。


ルンガ沖夜戦

ガダルカナル島周辺の制空権を奪われることになった日本軍は、鈍足で空襲を避けきれない従来の輸送船から、高速で夜間の間に物資を届けることが出来る駆逐艦を用いて兵員や物資の輸送を計画する。特に物資については短時間で駆逐艦から降ろすために、中身を半載して海面に浮かぶようにしたドラム缶を数珠繋ぎにした上で海上投下し、浜辺で待つ陸軍兵士に牽引揚陸させる輸送作戦(俗称、鼠輸送)を展開する。


田中自身は物資搭載量の少ない艦隊決戦用駆逐艦を運用想定外の輸送任務に使用することに関して強く反対してたものの、「あくまで急場しのぎの一時的なもの」と考えている上層部に押し切られる形で、第二水雷戦隊のうち駆逐艦8隻を率いて輸送任務に就いた。しかし、輸送作戦を阻止したいアメリカ軍はその動きを察知し、重巡4隻を主体とした11隻の艦艇で構成される巡洋艦隊を派遣し、ガダルカナル島ルンガ岬沖にて両軍は相対することになる。田中は輸送任務完遂のために夜闇に紛れてアメリカ軍をやり過ごすことを考えていた。しかし、レーダーにより日本軍を既に発見し、攻撃態勢をとっている敵部隊の様子を見て戦闘が避けられないことを悟ってドラム缶の投下中止と全艦突撃命令を出している。


戦闘そのものは日本軍の勝利に終わるものの、肝心の輸送作戦は失敗に終わる。さらにこの海戦から、狭い海域に艦艇を派遣するより航空機による襲撃や小型高速の魚雷艇による一撃離脱攻撃が効果的という戦訓を得た(この戦訓は後のレイテ沖海戦スリガオ海峡海戦における西村艦隊迎撃や、海戦後の日本海軍の輸送作戦(多号作戦)対策にも用いられる)アメリカ軍により、その後のドラム缶を用いた輸送作戦は成果が上がらない状況に陥っている。


後に田中自身が座乗する駆逐艦照月も、ドラム缶投下で見張り員すら満足に配置できない状況下で魚雷艇の雷撃を喰らって沈没している。この一件について、元部下が戦後に記した著作で「自分の嫌いな人物は人外の化け物、好きな人物は絶世の美男子という描写に終始する身内贔屓の自画自賛本」で照月の配置や田中の判断を一方的かつ主観的な執筆で批判しているが、戦中に第八艦隊司令部で行われた検証では田中の指揮判断に誤りは無いという判定が下されている。



陸上勤務

1943年1月、田中は第二水雷戦隊司令官を解任の上、陸上基地勤務を命じられる。そのまま海上勤務に戻ることもなく、ビルマ方面の臨時設置基地の管理・警備の責任者として終戦を迎えている。


戦後

戦中の低評価が祟ったためか戦後は伝記が組まれるなど英雄視されることもなく、特に特筆すべき事柄のない平穏な日々を送っている。取材に訪れた作家に対して、「することが無さ過ぎて(陸上勤務を任されてから今に至るまで)ずっと晴耕雨読の生活をしている」という趣旨の発言をしている。


1969年(昭和44年)7月9日、死去。


評価

日本側の評価では田中は敢闘精神に欠けるとして、上層部や部下たちから批判されている。しかし、宇垣纏連合艦隊参謀長が「現場から遠く離れた参謀たちが好き勝手に文句を言うのはどうかと思う」という意味合いの発言をしているため、上層部全体が嫌っていたのではない模様。


指揮官先頭突撃による果敢な戦闘指揮を好む部下たちからは反発されているものの、先頭に立った旗艦が集中砲火を浴びて早々に轟沈し指揮系統が乱れるという実例が発生しているため、戦局を中衛ないし後衛から俯瞰して確認しつつ指揮を取る田中の姿勢は決して的外れではない。ただし日本海軍においては、突出した旗艦の轟沈による司令部全滅と指揮系統崩壊について大きな問題としている形跡(しいて言えば探照灯を使用した艦艇が集中砲火を喰らって早期に轟沈することが問題視された程度)がないことから、田中の理解者は居なかったか極少数に留まっていると思われる。


また太平洋戦争開戦後、比較的初期段階から制空権の重要性と航空支援のない水雷戦隊が空襲に対して脆弱であることに気付いており、航空戦を軽視する同僚や上司との対立もあった。これらの事柄やガダルカナル島方面での作戦行動について慎重論の立場から反対意見を述べていたことから、陸上勤務への左遷になったと言われている。


一方、アメリカ軍側の田中への評価は、日本側と間逆の高評価である。ルンガ沖夜戦では駆逐艦高波の突出による時間稼ぎが功を奏したとはいえ、数と質で勝る重巡艦隊から奇襲攻撃を受けた状態からあえて突撃命令を出して撃退に成功しているなど、田中の冷静沈着な状況判断能力に評価点を見出している。

このアメリカ軍からの賞賛を聞いた田中は「自分は突撃を命令しただけ、活躍したのは部下たちの方」と答えるに留まり、自身の判断について深く語ることもどこかの陸軍中将のように自己正当化の根拠にすることもなかった。


ただし、これらの証言や資料をもってしても、戦中の作戦指揮において優秀な戦闘指揮官であると断定しきるだけ(そして、愚将と断じるだけ)の言動が乏しいことから、未だに評価が定まっていない点もある。


逸話

飲酒すると歌いながら踊りだす奇癖があった。


ルンガ沖夜戦時、敵重巡からの砲弾が座乗していた駆逐艦長波の周囲に次々と着弾したが、田中はその砲撃の腕前についてのんびりと批評している。次の瞬間にも直撃弾を食らって戦死する危険性がある状況下での発言に、それを聞いた周囲の者たちは「豪胆なのか、冷静なのか(もしくは状況が理解できないほど愚かなのか)」と判断に困った模様。


ケネディ大統領を戦死しかけたときの日本軍側指揮官が田中である、という都市伝説が存在している。しかし、ケネディ大統領が乗っていた艦艇が沈んだときには既に田中は陸上勤務に左遷させられていたため、実際には別人によるものである。


関連タグ

木村昌福 橋本信太郎 原田覚 市丸利之助

第二水雷戦隊 ルンガ沖夜戦

神通 長波 高波

照月

ドラム缶

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