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尊王の編集履歴

2017-10-01 13:38:07 バージョン

尊王

そんのう

尊王とは、国家の君主たる王や王室(日本は天皇・朝廷)を尊び大切にするという思想。

概要

国家君主である国王王室(日本の場合は天皇及び大和朝廷)やその伝統的権威を尊び、大切にしようとする思想で、幕末において天皇を中心とした新たな政治体制を打ち出すスローガンとして使用された。幕府の存在を重んじ補佐するという思想である佐幕は対義語にあたるが、朝廷と幕府を結びつけることで体制を再編・強化するという公武合体とは、必ずしも矛盾しない。

歴史

日本においては奈良時代天武天皇の命により編纂された『古事記』と『日本書紀』が端緒となる。この2つの書物は「天皇家は神の子孫」であるとして記述し、天皇家の血統と権力の正当性を主張した。

それでも平安時代初期までは天皇が政治を主導しており、天皇家の血統が表立つことはなかったが、徐々に天皇と姻戚関係を結ぶことにより権力の正当性を得た貴族が朝廷の実権を握るようになっていく。

よく知られるのが藤原摂関家による摂関政治である。藤原家は娘を天皇家に入内させて次の天皇となる皇子の祖父となり、利用価値がなくなると平然と天皇を挿げかえる政策を繰り返した。


時代が変わるのは平安時代後期である。摂関家に入内させるべき娘がいなくなると、藤原家と血のつながりの薄い後三条天皇が摂関家を排除、白河法皇から始まる「院政」の端緒となった。


「院政」は平安時代末期から鎌倉時代初期まで隠然たる力を持ちつづける。

そんな中、承久3年(1221年)、後鳥羽上皇鎌倉幕府打倒の兵を起こした。「承久の乱」である。この乱にあたって時の執権北条義時は出陣する嫡男・泰時を呼んで、「もし上皇(後鳥羽上皇)がみずから軍勢を率いて出陣してきたらどうするか?」と問うと、泰時は「その時は潔く討たれる」と答えたので義時は満足したという。天皇家の権威が武家にまで行きわたった証拠である。


鎌倉時代中期、元軍の来襲に貴族・寺院は「敵国退散」の加持祈祷に励んだ。結果として南宋と朝鮮の敗残兵からなる元軍は幕府軍の必死の抵抗と元軍の士気の低さ、天候の急変により辛うじて撃退に成功する。しかし、貴族・寺院はそれらの結果を「日本は神の国であるから、敵国はわれらの祈祷により天が日本から追い払った」と解釈、後の世に禍の芽が残った。


南北朝時代には南朝方の公卿・北畠親房が『神皇正統記』を著し、南朝の正当性を主張する。この書物と前述の『古事記』、『日本書紀』が「尊王」を代表する重要な書物として江戸時代まで伝わっていく。


室町時代において室町幕府は朝廷と共存する政策をとるが、戦国時代には京の都は焼け野原となり、天皇家も困窮、宮殿は廃墟同然となった。惨状から立て直したのが織田信長豊臣秀吉ら天下人であり、京の都は徐々に平安を取り戻していく。


江戸時代になると「政治・外交」は江戸幕府のものに、「権威と伝統」は京の朝廷のものとなり、緩やかな平和な続いていくこととなる。

この間、学問も盛んになり、水戸藩では第2代藩主・徳川光圀の命により『大日本史』の編纂が始まり、民間でも本居宣長、賀茂真淵らによる「国学」の研究が始まる。

これらの研究が幕末の「尊王」論に繋がり、「神の国・日本から敵国を追い払え」という「攘夷」論と糾合、「尊王攘夷論」に発展した。

その後、「攘夷論」は薩摩・長州両藩が欧米列強に敗れたことにより机上の空論であることがはっきりしたが、「尊王論」は明治新政府から太平洋戦争を経て、現在にも静かに受け継がれている。

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