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151系の編集履歴

2018-05-31 15:30:21 バージョン

151系

ひゃくごじゅういちけい

国鉄が1958(昭和33)年に製造・営業運転に配属した特急形電車。

概要

日本国有鉄道が1958(昭和33)年に製造し、同年に特急「こだま」号として東海道本線に配属した特急形電車。製造年代の割に設計最高速度が160km/hと凄まじい性能を誇っていたため、後の新幹線開業に向けての高速度での走行実験(通称「高速度試験」)も行われた。また、運転最高速度も当時の在来線としては未曾有ともいえる高速度運転である110km/hという速度で運行された。


製造当初の形式名は20系であったが、製造翌年の1959(昭和34)の称号命名規定の変更で151系となった。その後1962(昭和37)年に上越線向け派生型の161系が製造され、更に1965(昭和40)年に151系と161系をモーターの換装などの改造が行われて181系に統合された。


投稿イラストの傾向

pixiv内では他の形式の鉄道車両イラスト同様に該当系列の列車を描いたイラスト(特に高速度試験)や擬人化イラストが投稿されている。


基本構造

国鉄新性能電車のはしりとなった90系(後の101系)通勤形電車のメカニズムを基に、特急列車にふさわしい設備を取り入れたものであり、騒音源を客室から離す、高速度運転のために重心を低くする工夫をしつつ運転台は高い位置に設置し、更に静粛性と空調の効きをよくするために断熱・防音加工がなされている。そのため、ボンネットを有する特徴的な車体デザインとなった。

ボンネット内は補機室となっており騒音源となっていた空気圧縮機と電動発電機が格納されていた。

また、当時の看板特急列車である「つばめ」「はと」のような1等車の連結も無く、食堂車もビュフェに置き換えられ、さらに2等車には「ビジネスデスク」(乗車中に書類仕事が出来るように設置された机)まで装備されるなど、ややライトな「ビジネス特急」としての位置付けがされていた。


当初の運用、編成

1958年10月のダイヤ改正で、東京大阪間の特急「こだま」としてデビュー、所要時間は6時間50分で2往復が設定され、一応ではあるが両都市間の「日帰り」が出来ることを売りにしていた。(同区間を走行する、客車列車のつばめ・はとの所要時間は9時間)

編成は2等車(現在のグリーン車)2両、半室ビュッフェ車2両を含んだ8両編成である。


クハ26-モハ20-モハシ21-サロ25+サロ25-モハシ21-モハ20-クハ26


上記のように当初は4両編成を背中合わせに連結して、検査時など必要に応じて4両単位で編成替えが出来るように考慮されていた。そのため、サロ25のデッキ側には簡易運転台が設置されており、ジャンパ連結器も両渡りになっている。

翌年の称号改正で、下記のように新形式に改称されている。

モハ20001~006→モハ151 1~6 モハシ21001~006→モハシ150 1~6

サロ25001~006→サロ151 1~6 クハ26001~006→クハ151 1~6


翌年、2等座席車のモロ151/150の電動車ユニットと、3等座席車のサハ150が計12両増備されて12両編成に増強された。


高速度試験

1959(昭和34)に将来の鉄道高速化、ひいては新幹線開業へ向けた研究のための実験として151系予備編成(4M4T)から中間付随車2両を編成から外して4M2Tの6両編成にした試験編成に各種測定機器を取り付け、一部の車輪は横圧測定を容易にするためにスポーク車輪に取り替え、更に離線対策を施したパンタグラフと踏面の傾斜角度を変えた車輪も試験のため取り付けられた。

そして、東海道本線の条件のよい区間(金谷駅~藤枝駅間)を試験線として、道床の強化やロングレールコンクリート枕木の敷設をし、架線を一部ツインカナテリー式に変更、更にこれらの設備や線路近辺にも測定器が設置され、7月27日~同月31日にかけて試験を行い、70km/h、100km/h、130km/h、160km/hと回を重ねるごとに速度を上げて実験を行った。最後の160km/h試験で当時の狭軌鉄道世界最高速記録である163km/hを記録している。

ちなみに、同年と翌年にかけて魔改造旧型国電ことクモヤ93000形によって165km/h、167km/h、175km/hと記録が塗り替えられている。このクモヤ93000形は高速度試験後の結果を元にした鉄道高速化のための実験につかわれており、高速運転用のモーター、パンタグラフの試作品を取り付けた試験が行われた。

余談だが、クモヤ93000形は本業の架線検測のため屋根上にのついたドームがあるため、151系の設計にあたってこの架線検測用ドームを高運転台に見立てて信号機がどのように見通せるかの調査にも使われた。

151系の登場によって、東京〜大阪間の特急列車はより速く、より快適にグレードアップした。

速達性は言うに及ばず、乗り心地が良くなり、3等車(普通車)を含む全ての車輌に冷房がついた。


『つばめ』『はと』の電車化とクロ151

151系「こだま」の登場で特急列車のサービスの底上げが図られたが、別の問題が噴出した。

元々東海道本線で運転されていた特急列車、「つばめ」「はと」は1等展望車まで連結され、まさに「特別な急行列車」と言うべき存在であり、国鉄の看板列車そのものでもあった。

しかし1等車と食堂車を除けば冷房も無く、その1等車も車齢が20~30年に達し老朽化が進んでおり、「こだま」に対して決定的な格差が発生してしまったのである。必然的に両列車についても151系による置き換えが計画されたが、元々ビジネス志向の151系を単純に両列車を置き換えるには問題も多かった。


航空機の利用も一般的ではなかった当時の1等展望車は、元華族(戦後廃止されたが名残は残った)、当時は珍しかった海外からの観光客(アメリなどの先進国でも、海外旅行が出来る者はごく限られていた)、国内外の政府高官、財界人などのいわゆる名士が利用するものであった。当時はこうした旅客の需要も一定数存在しており、当然ながら1等展望車を置き換えるのにふさわしい車両設備が求められ、従来の1等展望車と同じクラスのサービスを提供することを目的に開発されたのがクロ151である。


構造

クハ151と同じく先頭がボンネット形の2等制御車であり、「パーラーカー」の愛称がある。

特徴的な設備は、いちばん上質な設備の個室「区分室」と、従来の2等車より上質な設備の座席室「開放室」である。

いずれも、従来運転されていた1等展望車に代わって最上級のサービスを提供するための設備である。

車両の中央より運転席側に区分室、デッキを挟んで反対側に開放室があった。

このため、区分室の乗客は開放室の乗客らと顔を合わせるとこなく乗降できた。また客室窓が1m×2mと非常に大きいことも特徴である。

区分室・開放室問わずすべての座席にイヤホンジャックがあり、NHK第一/第二放送を聴くことができた。

また、座席に座ったまま電話をかけることも可能だった。これは、給仕が座席に電話機をもってきて、無線電話回線と繋がるジャックに差し込んで使うというものであった。自動車電話のサービス開始が1979年まで掛かったことを考えると、当時としては夢のようなサービスだった。


1960年(昭和36年)6月1日のダイヤ改正

東海道本線の昼行特急列車は「こだま」「つばめ」「はと」の電車列車3往復に置き換えられた。

そのため、上記のクロ151、食堂車のサシ151他36両の151系が増備された。

編成は大阪方から

2等車5両(クロ含)/食堂車/半室ビュフェ3等車/3等車5両

 の12両編成という非常に豪華な編成であった。


なお直後の7月1日には、既存の1等車(記号イ)を廃止、2等車及び3等車をそれぞれ格上げする形で2等級制に移行した。


関連タグ

国鉄 特急形電車 こだま(在来線)


20系・・・旧形式名

181系・・・形式統合後

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