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日英同盟の編集履歴

2018-06-10 20:34:16 バージョン

日英同盟

にちえいどうめい

1902年に調印・発効された日本とイギリスの軍事同盟。第一次大戦後まで日本の外交基盤となった。

曖昧さ回避

本サイトにおいては『Axis Powers ヘタリア』のイラストが多い。そちらは島国同盟を参考。


概要

1902年1月30日に発効され、1923年8月17日に失効されるまでの約20年続いた、日本イギリスの間で結ばれていた軍事同盟である。「日英攻守同盟条約」とも呼ばれる。日本側代表の林董特命全権公使と、イギリス側代表のヘンリー・チャールズ・キース・ペティ=フィッツモーリスランズダウン侯爵とが、ロンドンのイギリス外務省において調印したことで締結された。


締結の経緯

当時のロシア帝国は極東進出のために南下政策をとっており、清国やその属国であった朝鮮への圧力を強めていた。

もしロシアに半島まで侵攻されれば、日本は自国をとても守りきれない。そうした自国の安全保障のこともあって、日本は朝鮮の独立と清国・朝鮮の近代化を促そうとしたが、それに清国が反発したことで朝鮮半島の統治権を巡った日清戦争が勃発。


日本の勝利により朝鮮は大韓帝国として日本の保護下に入ったが、戦争終結の翌年6月3日にモスクワでロシア帝国と清国の間でロシア側はアレクセイ・ロバノフ=ロストフスキー外務大臣とセルゲイ・ヴィッテ財務大臣、清側は李鴻章欽差大臣が立ち会って行われた「露清密約(日本がロシアと清のいずれかへ侵攻した場合、互いに防衛のため参戦するという相互防御同盟の結成を目的とした秘密条約で、同時に清に対しロシアの満州における権益を大幅に認めさせるという不平等条約の側面があった)」が締結され、これによりロシアは満洲と北中国全域の支配体制をより盤石なものとし、関税をかけるのも時間の問題となっていた。


更に追い討ちをかけるように北清事変(義和団の乱)が起こり、これに乗じてロシアは満州を軍事占領。後に撤兵の約束をしたが、なかなか撤退しようとせず、むしろ朝鮮半島にまで触手を伸ばすようになっていった。

その後辛亥革命により清朝が滅亡。これによりアヘン戦争以降のイギリス一国による清国の半植民地状態も崩壊し、欧米列強が次々に大陸に進出していった。


こうした経緯が、日露戦争を惹き起こした原因となったとされる。

日本とイギリスは、ロシア帝国のアジア進出を警戒し、阻止するという共通の目的と、義和団の乱でイギリスからも大変評価された柴五郎中佐の活躍により対日感情が好転していたこともあり同盟が結ばれ、日露戦争や第一次世界大戦において絶大な効力を発揮することとなった。


近年

第一次世界大戦の後、戦後処理のため行われたパリ講和会議において、当時有色人種に対して差別意識が強かった欧米列強に対し、日本人種的差別撤廃提案を議題に挙げた際に、イギリスと意見が対立したことや、同じく反対したアメリカの謀略もあって日英同盟は失われてしまった。


しかし近年、イギリスはヨーロッパ連合(EU)からの離脱が決まり、それにより中国との関係を重視していたデーヴィッド・キャメロン首相率いる政権が崩壊。新たに発足したテリーザ・メイ首相率いる新政権は、対中国政策を白紙に戻して中国から距離をおくようになり、日本との関係を重視するようになった。


メイ首相は、中国が主導するのアジアインフラ投資銀行(AIIB)にアメリカの反対を押し切って最初に参加するなどした、キャメロン前政権の「英中蜜月路線」の修正を進めており、媚中派のジョージ・オズボーン前財務相を更迭し、2017年5月に行われた中国の現代版シルクロード経済圏構想「一帯一路」首脳会議への参加も見合わせている。日英外交筋はイギリス側のこうした思惑を「中国との連携関係は経済に限る」と分析しているという。


2017年1月26日には、日英両政府は日本国自衛隊イギリス軍との間で、武器弾薬の相互提供など互いの物資を融通し合い、軍事作戦の後方支援を可能にする物品役務相互提供協定(ACSA)に署名し、協定が締結された。これは日本とイギリスが事実上『準軍事同盟国』になったことになる。


日本がこの協定を締結した国は、アメリカオーストラリアに次ぎ3ヶ国目であり、欧州ではイギリスが初となる。

更に日英両政府は、世界最高水準の戦闘機ミサイル『JNAAM』の共同研究をはじめ、互いにステルス戦闘機の技術に関する情報を交換する覚書にも署名している。


更に、実はイギリスで1831年に創設された世界最古のシンクタンク『英国王立防衛安全保障研究所(英:Royal United Services Institute for Defence and Security Studies、通称:RUSI)』のアジア本部が、2012年に日本の東京に創設されている(通称:RUSI Japan)。

こうした日英関係の深化から、「日英同盟の復活か」「21世紀の日英同盟」という声もあがっている。


ちなみに、親日家で知られるイギリス人ジャーナリストヘンリー・S・ストークス氏によれば、第二次世界大戦前後の時代におけるイギリスには知日派が少なく、白人民族と有色人種民族の対等を訴えていた日本への理解が無く敵対してしまったために、かつてのアジアアフリカにおけるイギリスの植民地が日本との戦いを機にほぼ全て独立国家となり失われてしまい、大きく国力を落としてしまった苦い経験の反省から、戦後は日本に精通した外交官が育成されるようになったという。

そうしてヘンリー氏をはじめとした日本に長く滞在するプロの知日派と見做されるイギリス人たちは、総じて日英同盟の破棄は間違いだったと全員が語っているという。

関連タグ

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日露戦争 第一次世界大戦

北清事変(義和団の乱) 柴五郎

マルタ 地中海の守護神


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