重要
村上天皇の皇子具平親王の子師房が寛仁4年(1020年)に源朝臣の姓を賜わり、その孫にあたる太政大臣源雅実が祖。久我という家名は、源師房の代より伝えられ、山城国乙訓郡久我(こが)(現在の京都市伏見区久我)に構えた別業(別荘)である久我水閣が由来とする。ただし、その子源雅定は「中院」、その次の源雅通は「久我」、その次の源通親は「土御門」と呼称されており(『尊卑分脈』)、厳密な意味での「久我家」を通親の子久我通光を祖とする系統に限定させ、それ以前はあくまでも「村上源氏中院流」として捉える見方の方が正確とされている。
鎌倉時代前期の源通親は内大臣となり、権勢を振るい「源博陸(はくろく/はくりく=関白の異名)」と称された。狭義における久我家の祖である通光は通親の三男であるが、一男源通宗(母太政大臣藤原忠雅公女)が参議左中将・31歳で早世、二男源通具が平教盛(通盛説もあり)の外孫であり、後鳥羽天皇御乳母で土御門天皇外祖母である藤原範子を母とする通光が嫡男としての扱いを受けた。
また、雅定以来の中院流には源氏長者及び淳和奨学両院別当を輩出する資格を有していたが、同流のうちの一門上首が任じられるのを原則とされたため、久我家以外の中院家諸家との間の持ち回りの任命となり、久我家の優位性を確立出来なかった。更に通光は承久の乱に連座して内大臣を更迭され、後に太政大臣に任ぜられたものの晩年に久我家の家領のほとんどを後妻「西蓮」に与えたことから、通光の没後に後妻と先妻の子である嫡男久我通忠との間で家領相論が発生し、不利となった後妻側は鎌倉幕府との関係が深い有力公家である西園寺家に久我家領を譲ることを条件に庇護を求めたために久我家は所領をほとんど失い、没落寸前となった。だが、通忠の後妻が有していた祖父平頼盛の旧領(「池大納言家領」)が久我家に継承される。この所領は鎌倉幕府によって保障された関東御領としての性格を持ち、それを足がかりとして久我家の再興が図られた。通忠後妻に庇護される形となった通忠先妻の子久我通基は正応元年9月12日、初めて宣旨をもって源氏長者に補任されて久我家の源氏長者の権威づけを図った。更に南北朝時代の久我長通は当時の公家社会における一門上首から家嫡系統を重視する風潮への変化に合わせて久我家を中院流の嫡流として確実にすることに力を注いだ。すなわち、西園寺公宗の処刑による混乱に乗じて西園寺家に渡った旧久我家領を取り戻し、他の中院流公家の源氏長者補任の阻止を図った。その工作が功を奏し、長通の没後に源氏長者になった嫡男久我通相以後源氏長者は久我家の独占となった。
だが、室町時代に入ると足利義満が源氏長者となり、足利家が源氏長者となる慣例が成立する。ただし、足利将軍家そのものが後継者争いなどによって不安定な状況が続いたため、実際には村上源氏公家の久我家と清和源氏武家の足利家が交互に源氏長者に就任する様相を呈し、戦国時代に入ると再び久我家が源氏長者を独占して久我通堅まで続いた。また、中世以後当道座の本所としても知られた。だが、康正2年(1456年)に放火によって久我家の家記などの文書を失い、更に戦国時代以後に各地の荘園を失ったことで衰退し、豊臣政権期末期の慶長4年(1599年)に久我敦通と長橋局のスキャンダルで後陽成天皇の勅勘を受けて家領の多くを奪われたことから、江戸時代に入ると源氏長者は徳川家に奪われてその独占となり、久我家は摂関家に次ぐ清華家の家格を有したものの、実際には不振が続き、江戸時代の家禄とされる700石が確定したのは敦通の孫である久我広通の時代と言われている。以後は清華家として再び大臣を輩出するようになった。幕末維新の混乱期に一時久我建通が源氏長者となったともいわれるが、真偽は不明。 明治維新後の1884年(明治17年)7月7日、久我通久が侯爵に叙せられた。
家紋は五つ竜胆車。庶流に、中院家、北畠家、六条家、久世家、東久世家、岩倉家、千種家、植松家、梅溪家がある。
とはずがたりの著者として知られる後深草院二条は、源雅忠の娘。
また、久我家第33代当主、侯爵久我通顕の長女は女優の久我美子である。
曹洞宗の開祖である道元は久我家の出身とする説もある。菩提寺は京都北区紫野大徳寺内清泉寺。
久我侯爵家に伝来する、池大納言家領相伝文書案や当道座管領関係文書などの約2,800点にも及ぶ膨大な公家文書は、久我通久が皇典講究所初代副総裁であった縁により、現在は國學院大學図書館に収蔵されている。
久我家の人物
道元(通親の子という説がある。)
久我美子(女優)