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応仁の乱の編集履歴2020/04/28 17:50:33 版
編集者:つヴぁい
編集内容:戦いの経過などを中心に、一部内容を変更。

応仁の乱

おうにんのらん

応仁の乱(応仁・文明の乱)とは、室町時代の日本で起こった内乱のひとつ。室町幕府の将軍後継や有力大名の家督争いに端を発し、諸大名が東西両軍に分かれ10年以上に亘って京都を中心に戦を繰り広げた。この大乱を「戦国時代の幕開け」と位置づける見解も存在する。

概要

応仁元年(1467年)~文明9年(1477年)に11年の長期に及んで続いた日本内乱。「応仁・文明の乱」とも呼ばれる。この戦いをきっかけに日本は戦国時代になったと言われる。

簡単にどのような戦いだったかについてだが、とても簡単には説明できない。全体的にあまりに複雑で、原因も複合的で、目的もバラバラで、実質的な勝者もいない、混沌とした戦いだった。

関係者も比較的マイナー気味な人物が多く、歴史に詳しくない人でも一度は聞いたことがあるというような有名なヒーロー的人物がほぼ存在しないこともあり、「日本史の授業で名前だけは覚えてるが、内容はよくわからない」という人も多いのではなかろうか。

何とか強引に簡略化して解説すれば、「将軍家と有力大名家の各々の跡継ぎ問題が絡んで二大陣営となって戦い合い、引き分けで終わった戦い」となる。

当時の人々からしても意味不明な戦いと受け止められており、興福寺の僧侶・尋尊はこの戦いについて『尋尊大僧正記』でいくら頭をひねっても応仁・文明の大乱が起こった原因がわからない!と記したほどである。

大乱の前史

14世紀室町時代足利尊氏によって作られ、足利義満によって完成された室町幕府南北朝を合一し、15世紀には日明貿易で経済的に潤い、文化発展も盛んな平和な時代となっていた。政治体制も細川・畠山・斯波といった有力大名が管領として将軍を補佐し、全国各地は守護大名が統治し、関東九州には出先機関である探題が設置され、幕府権力を磐石なものとした。しかし、その栄華も義満亡き後になって陰りが早くも現れる。

応永23年(1416年)の鎌倉公方の上杉禅秀による反乱、4代将軍・足利義持による日明貿易の停止、くじ引きで将軍に決まった6代将軍・足利義教独裁政治と恐怖政治、永享10年(1438年)の足利持氏による「永享の乱」、嘉吉元年(1441年)の播磨守護大名・赤松満祐により義教が毒殺された「嘉吉の乱」、など政情不安定な状況が続き、各地では天災や飢饉、一揆も相次ぎ、幕府の権力や権威は低下していった。

有力者たちの睨み合い

そういった情勢の真っ只中である文安6年(1449年)、当時14歳であった足利義政が室町幕府第8代将軍に就任する。就任当初、幕政の実権は管領や乳母といった周囲の有力者によって握られていたが、長ずるにつれて自らの手による政権運営を志向するようになり、関東方面での騒乱や有力大名の家督争いへの介入、伊勢貞親らを始めとする側近勢力の強化などを通して、将軍による専制体制の確立に努めていた。

とはいうものの、やはり有力大名による政治介入に関しては義政も如何ともし難い部分があり、またそもそも義政自身のスタンスも、その時その時の情勢によって優勢な側へ有利な裁定を下すという、優柔不断なものであったのは否定できない。そしてこの義政の無定見ぶりは、その後の大乱においても事態の混迷ぶりに拍車をかける要因の一つとなったのである。

それから10年余り後、寛正5年(1464年)に入ると義政は30も手前にして隠居を考えるようになり、当時僧籍にあった実弟の義尋に将軍職を譲ることを打診。これを受けて義尋は還俗し足利義視と名を改めた。ところが翌寛正6年(1465年)、義政と正室・日野富子との間に嫡男・足利義尚が誕生する。

通説では、この義尚の誕生によって義政夫婦と義視との関係が悪化し、また自分の実子を将軍にしようと考える富子が山名宗全(持豊)を義尚の後見役に立て、義視の排除に動いたと長らく語られてきた。とはいえ実際のところは義視の正室として富子の妹が嫁いでいたこともあり、両者の関係は必ずしも悪くはなかったという。また嫡子が誕生したとはいえ、幼児の生存率も低かったこの当時、義視は義尚が無事に成長するまでの中継ぎとしての役割を、義政夫婦らより期待されていたとも考えられている。

しかし当事者間の関係が悪くはなくとも、それを取り巻く有力者の思惑が絡んでくると話は変わってくる。例えば義政の養育係でもあった伊勢貞親などは、あくまで義政による政権(と、自分たちの立場)の維持を望んで義視の将軍就任に難色を示し、また一方で貞親ら将軍側近勢力と対立していた山名宗全(持豊)らは、逆に義政の引退と義視の将軍就任を望んでいた。そして政治路線的にこの両者の中間に位置していたのが、当時の幕府管領であった細川勝元らの勢力であり、彼らとしては前述したように中継ぎとしての義視の将軍就任を支持していたと見られている。

前述したように、後継者問題は足利将軍家だけに限ったことではなかった。この時期「三管四職」の一端を担っていた畠山・斯波両家内でもそれぞれ御家騒動が深刻化しており、例えば斯波氏の家督争い(武衛騒動)では将軍側近勢力や勝元が斯波義敏を推したのに対し、宗全は斯波義廉の後ろ盾として支援に回るなど、方々で各勢力による睨み合いという構図が展開されていた。

文正の政変

この三者のせめぎ合いに俄かに変化が生じたのが、文正元年(1466年)に発生した文正の政変である。この頃、将軍側近勢力は有力大名の御家騒動への介入だけでなく、将軍生母である日野重子の逝去(寛正4年(1463年))に際し、幕府の敵と看做されていた畠山義就や斯波義敏、大内政弘といった面々を赦免することで、彼らを自陣営に引き込むことも画策していた。

しかし赦免された斯波義敏が、将軍側近勢力の後押しや義政の関東方面での政策転換などから家督を継ぐことになるや、当主の座から追われた斯波義廉は巻き返しのため宗全に接近、さらに赦免されたとはいえ未だ逼塞の身にあった畠山義就と、宗全を結び付けるべく奔走もしている。加えて将軍側近勢力に反感を抱いていた勝元もまた、これを支援する動きを見せた。

そのような情勢の中、9月に入ると義政は謀反の疑いアリとして義視の誅伐に乗り出す。これはあくまでも義視の排斥にこだわっていた貞親らの進言を受けての行動であったが、危機感を抱いた義視は勝元を頼り、結果勝元と宗全ら有力大名によって讒訴の罪を問われた貞親らは、京を追われ失脚の憂き目にあったのである。

貞親らの失脚による将軍側近勢力の崩壊は、即ち義政による親政が行えなくなったことを意味し、実際政変の直後には義視を事実上の将軍とした暫定政権も発足している。前述の通りこれは山名派の思惑通りの結果となった訳だが、程なく義政が伊勢一族らの幕府からの追放や、義視の身の安全を保証する事を条件に再度政務に復帰し、その思惑も敢え無く崩れ去ることとなった。この義政の復権は、山名派の勢力拡大を不安視した勝元による働きかけがあったものと見られている。

当初、婚姻関係などを通して良好な関係の維持に努めてきた山名・細川の両家も、この頃になると前出の諸大名の御家騒動や、赤松・大内といった利害の競合する大名(赤松氏は嘉吉の変以来山名氏と、大内氏は貿易の利権を巡って細川氏と対立していた)への対応を巡る見解の相違などから、その関係も次第に冷え切りつつあった。そしてこの政変で浮き彫りになった政治路線の相違が、程なく始まる大乱へと直結していくこととなる。

大乱の幕開け

文正元年の末、畠山義就が軍勢を率いて河内を発ち、上洛の途についた。これは文正の政変前後から繋がりが出来つつあった、宗全の呼びかけに応じてのものであったとされ、入京した義就は宗全らの支援と軍事力とを背景に、義政に畠山家当主への就任を認めさせている。

この一連の行動によって、幕府は事実上山名派の牛耳るところとなったが、当然細川派も黙ってはいなかった。とりわけ畠山家当主のみならず、管領職までも追われた畠山政長は、勝元らの支援を得て巻き返しを図り、翌文正2年(1467年)正月、京都郊外の上御霊社にて政長勢と義就勢との間で戦端が開かれた(御霊合戦)。

この時義政から宗全と勝元に対し、義就と政長への軍事介入を禁じる命令が出されており、実際に勝元はこれに従って静観の構えを見せていたが、これに対して宗全は(合戦に間に合わなかったとはいえ)義就勢へ援軍を差し向けており、結果細川派はこの合戦に敗北を喫したのみならず、盟友であった政長を見捨てたとして勝元への評判までも損ねるという、二重の意味での屈辱を味わうこととなった。山名派と細川派の本格的な衝突は、この時をもって最早避けられぬものとなったのである。

御霊合戦の後、年号が応仁へと改められたこの年の春頃までは、束の間の平穏が保たれていたが、やがて応仁元年(1467年)5月に入ると、諸国にて細川派による軍事行動が相次いで発生、この頃勝元と結託していた赤松政則や斯波義敏も、それぞれの旧領である播磨や越前を奪還すべく侵攻を開始した。5月26日には山名派の一色義直邸が細川派の軍勢によって焼き討ちを受け、これを境に両陣営は全面衝突に入った。これが応仁の乱の幕開けである。

両陣営は地元から兵を集め、続々と京都の各勢力に集結。洛中東側に陣を構えた勝元が率いる東軍と、洛中西側に陣を構えた宗全が率いる西軍の二大陣営が形成された。

各勢力の動向

※印の付記された者は後に敵方へ寝返った武将。

氏族東軍西軍
戦力(諸説あり)約16万約11万
足利氏足利義政足利義視※、足利義尚
細川氏細川勝元、細川成之 他
山名氏山名是豊山名宗全、山名政豊 他
伊勢氏伊勢貞親伊勢貞宗伊勢貞藤
畠山氏畠山政長、神保長誠 他畠山義就、畠山義統 他
斯波氏斯波義敏斯波義廉朝倉孝景※、甲斐敏光※ 他
京極氏京極持清、多賀高忠 他京極乙童子丸(高清)他
赤松氏赤松政則、浦上則宗 他有馬元家
大内氏大内教幸(道頓)大内政弘
富樫氏富樫政親富樫幸千代
土岐氏土岐政康 他土岐成頼、斎藤妙椿 他
その他武田氏、北畠氏、今川氏※、大友氏一色氏、土岐氏、六角氏、島津氏

上記に列挙された武将はあくまでも主だった者であり、これ以外にも様々な大名が各陣営に与し、京都だけでなく諸国でも戦いの火の手が上がることとなった。

とはいえ、上記の通り同じ氏族・家中であっても必ずしも陣営を同じくした訳ではなく、また相互に寝返りも相次ぐなど各陣営とも決して一枚岩とは言えぬ状態であった。そもそも各陣営内での方針・目的・利害も一致している訳ではなく、この戦いは当初から単なる二極戦では済まなかった。

直接的であれ間接的であれ、関係していた大名が幕政に関与していた、もしくは利害が相反するというだけで、正直何のために戦うのかよくわからないままなし崩し的に駆り出された勢力も少なくはなかった。歴史学者の永原慶二は、この全体的なモチベーションの低さが戦いをダラダラ長引かせて拡大させた要因の一つだったのではないか、と推測している。

戦いの経過

開戦当初、東軍はいち早く将軍邸を占拠し、義政・義尚・義視の3人を確保。さらに後土御門天皇後花園法皇を保護下に置いたことで、東軍は「官軍」としての体裁を整えることとなった。後に西軍の総大将に担ぎ出される足利義視もこの時は東軍を率いており、また義政による降伏勧告に斯波義廉らが応じようとしたこともあって、当初は東軍が戦況を優勢に展開していた。

しかし6月に入ると大和の古市氏らが、さらに8月に大内政弘が各々軍勢を率いて上洛し、西軍に合流、とりわけ大軍を擁する大内政弘の参戦は、戦況を一変させる契機ともなった。またこの頃義政の意向で伊勢貞親の幕府復帰の動きも本格化したことから、東軍主将であった義視は立場を失い伊勢北畠氏の元へ出奔。

9月から10月にかけて戦火は京都郊外にも拡大し、激戦となった相国寺の戦いを経て東軍が将軍邸を中心にした一角に追い込まれる形に変わるも、結局勝敗を決するまでには至らず両陣営とも多大な損耗を生じたことから、以降洛中における軍勢の衝突は散発的なものへと転じていった。

翌応仁2年(1468年)になってもこの状況に変化は見られなかったが、同年秋に入り事態は思わぬ展開を見せる。一度は帰洛していた義視が、対立関係にあった伊勢貞親の幕政復帰や、次期将軍としての義尚擁立の本格化などにより、再び立場を失い比叡山へ出奔。そして西軍からの要請に応じる形で、西軍陣営の新将軍として迎え入れられることとなったのである。これによって西軍は独自の幕府機構を成立させることとなり、幕府は東西に分裂。これに対して義政がそれまでの和睦路線から一転して、義視らを朝敵と見做すようになるなど、戦乱の収束はさらに遠のくこととなった。

一方で前述したように、この時期の主戦場は洛中から、山城や摂津など京都の周辺に移っており、特に山城では西岡などを中心に細川氏と大内氏との間で衝突が激化するも、次第に戦局は膠着化の一途を辿ることとなる。文明3年(1471年)には斯波義廉の重臣で西軍主力の一角でもあった、朝倉孝景が調略によって西軍から東軍に鞍替えし、これにより形成は再び東軍有利に転じた。対する西軍もこの頃南朝の皇胤を擁立(西陣南帝)、天皇・上皇を擁していた東軍に対抗しているが、これには畠山義就らが難色を示すなど意見の不一致も浮き彫りとなった。

こうした戦乱の長期化の背景には、前述した各陣営内での足並みの揃わなさだけではなく、御構や井楼の構築といった陣営の城塞化により、短期決戦が極めて困難となったこと、さらに軽装で機動力のある足軽を両陣営が用いたことによる、補給路の遮断・破壊なども大いに影響している。とりわけ足軽たちの略奪・破壊行為は敵軍のみならず、公家・寺社や庶民にも被害を及ぼすこととなり、洛中の荒廃にもさらなる拍車をかけていった。

終息への道のり

戦乱の長期化と地方への拡大、さらにそれに伴う幕府権力の失墜により、次第に両陣営内の士気は低下しつつあった。また文明3年には畿内を中心として赤痢・疱瘡といった疫病も流行し、こうした情勢から翌文明4年(1472年)頃より、両陣営の首脳間でも徐々にではあるが和睦への取り組みが持たれるようになっていった。

この和睦交渉は畠山義就や赤松政則など、各陣営の主戦派による抵抗もあって思うように進まずにいたが、文明5年(1473年)に宗全と勝元が相次いで死去し、後を継いだ山名政豊(宗全の嫡孫)と細川政元(勝元の嫡男)との間で文明6年(1474年)春にようやく和睦が成立するに至る。無論これはあくまで首脳間での和睦に過ぎず、各陣営に属する諸将の間ではその後も散発的かつ惰性的な小競り合いが続いた。

その間、文明5年12月に義政は、将軍職を9歳になった義尚に正式に譲り、自身は東山山荘(後の銀閣寺と呼ばれる慈照寺)にて隠居生活に入った。幕府機構もこの頃になると伊勢氏や赤松氏、それに日野勝光(日野富子の兄)などを中心に回復に向かいつつあり、前述した山名・細川間での和睦成立後は勝光、そして彼の死後は富子が終戦工作を担うこととなる。富子は幼い義尚に代わって幕政を指揮する一方、両陣営に対する多額の金銭の貸し付けや米投機なども行っており、これによって得られた莫大な利益をもって幕府と朝廷の建て直しに奔走したのみならず、金銭の貸付を通して構築された関係や人脈を、後の和睦交渉の際に大いに役立ててもいる。

一方西軍では主戦派の一人であった、美濃の土岐成頼やその家臣の斎藤妙椿を中心に、越前などでなおも抵抗が続けられるが、文明7年(1475年)の甲斐敏光(斯波義廉の家臣)の東軍帰参により越前が東軍の支配下に収まると、斯波義廉は孤立状態に陥った末に領国の一つである尾張へ下向。さらに義政による大内政弘への働きかけもあり、翌文明8年(1476年)には西軍主将となっていた義視も、義政に恭順の意を示し事実上赦免されることとなった。

そして文明9年(1477年)秋、義就と政弘が各々下国の途についたことで西軍は事実上解体を迎え、去就の決まらずにいた義視も土岐成頼らと共に美濃へ退去。11月20日には西軍解体が完了したことを受けて、幕府による「天下静謐」の祝宴が催され、11年間に及ぶ大乱はここに終結した。

結果・影響

明確な勝者のいない戦いは、両陣営ともにほとんどとくに何も得られずに終わり、それどころか京都を焦土と化し、疲弊した幕府も朝廷も権力と権威を失墜させる結果になった。

幕府内ではその後も将軍職を巡って奪い合いの合戦が相次ぎ、ますます幕府の統制は乱れ、信頼は地に落ちた。そのために、各地の大名も有力者も、庶民すら幕府の指示従わなくなるようになる。

各地では農民たちの一揆も増加し、寺社の独立性や武力を高め、各地の大名も独立独歩で勢力の維持や拡大を図り、実力主義で成り上がる者達が増え、世はまさに群雄割拠と下克上の戦国時代へと移り、大名は戦国武将となっていく。

荒廃した京都を捨てて地方へ移る有力者や文化人、公家も多く、中央の文化や信仰が地方に広まったり、有力者が地方に根付いて勢力を強めたりした。

一方の京都では復興が始まっていたが、権力者達は京都の荒廃を顧みようしなかった。それでも京都の町民達は自力での復興再建に乗り出し、明応9年(1500年)には祇園祭を復活させ、この乱後に西陣織が発展した。

余談

  • 寛正5年(1464年)に即位した後土御門帝だったが、乱に巻き込まれて約10年も室町邸で避難生活を強いられ、乱後は皇室行事再興に尽力したが、思うようにはならなかった。
  • この時期を舞台にした大河ドラマが、1994年に放送された三田佳子が演じた日野富子を主人公にした『花の乱』である。
  • 京都では「戦後」と言えば第二次世界大戦大東亜太平洋)後のことではなく、この応仁の乱後を指すという冗談がある。細川護貞氏が「前の戦争(応仁の乱)で細川家の宝物が焼けた」と言った話が元ネタとなっている。
  • 2017年は応仁の乱勃発から550年目、終結から540年目という節目に当たり、この戦いへの関心が高まっており、とくに呉座勇一著書の中公新書『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』が人気を集めている。
  • 2017年5月21日に京都で山名家と細川家など両陣営の子孫達が対談し、子孫両者が握手を交わして550年の時を越えた和睦を成した。
  • かなりグダグダな終わり方をしたせいで、どこを明確な終わりにするか定まってない現在の評価どころか当時の手紙にも「なんかいつの間にか戦(応仁の乱)が終わってた」という内容のものがあったとか……

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応仁の乱の編集履歴2020/04/28 17:50:33 版
編集者:つヴぁい
編集内容:戦いの経過などを中心に、一部内容を変更。
応仁の乱の編集履歴2020/04/28 17:50:33 版