概要
応仁元年(1467年)~文明9年(1477年)に11年の長期に及んで続いた日本の内乱。「応仁・文明の乱」とも呼ばれる。この戦いをきっかけに日本は戦国時代になったと言われる。
簡単にどのような戦いだったかについてだが、とても簡単には説明できない。全体的にあまりに複雑で、原因も複合的で、目的もバラバラで、実質的な勝者もいない、混沌とした戦いだった。
関係者も比較的マイナー気味な人物が多く、歴史に詳しくない人でも一度は聞いたことがあるというような有名なヒーロー的人物がほぼ存在しないこともあり、「日本史の授業で名前だけは覚えてるが、内容はよくわからない」という人も多いのではなかろうか。
何とか強引に簡略化して解説すれば、「将軍家と有力大名家の各々の跡継ぎ問題が絡んで二大陣営となって戦い合い、引き分けで終わった戦い」となる。
当時の人々からしても意味不明な戦いと受け止められており、興福寺の僧侶・尋尊はこの戦いについて『尋尊大僧正記』で「いくら頭をひねっても応仁・文明の大乱が起こった原因がわからない!」と記したほどである。
大乱の前史
14世紀の室町時代。足利尊氏によって作られ、足利義満によって完成された室町幕府。南北朝を合一し、15世紀には日明貿易で経済的に潤い、文化発展も盛んな平和な時代となっていた。政治体制も細川・畠山・斯波といった有力大名が管領として将軍を補佐し、全国各地は守護大名が統治し、関東と九州には出先機関である探題が設置され、幕府権力を磐石なものとした。しかし、その栄華も義満亡き後になって陰りが早くも現れる。
応永23年(1416年)の鎌倉公方の上杉禅秀による反乱、4代将軍・足利義持による日明貿易の停止、くじ引きで将軍に決まった6代将軍・足利義教の独裁政治と恐怖政治、永享10年(1438年)の足利持氏による「永享の乱」、嘉吉元年(1441年)の播磨守護大名・赤松満祐により義教が毒殺された「嘉吉の乱」、など政情不安定な状況が続き、各地では天災や飢饉、一揆も相次ぎ、幕府の権力や権威は低下していった。
有力者たちの睨み合い
そういった情勢の真っ只中である文安6年(1449年)、当時14歳であった足利義政が室町幕府第8代将軍に就任する。就任当初、幕政の実権は管領や乳母といった周囲の有力者によって握られていたが、長ずるにつれて自らの手による政権運営を志向するようになり、関東方面での騒乱や有力大名の家督争いへの介入、伊勢貞親らを始めとする側近勢力の強化などを通して、将軍による専制体制の確立に努めていた。
とはいうものの、やはり有力大名による政治介入に関しては義政も如何ともし難い部分があり、またそもそも義政自身のスタンスも、その時その時の情勢によって優勢な側へ有利な裁定を下すという、優柔不断なものであったのは否定できない。そしてこの義政の無定見ぶりは、その後の大乱においても事態の混迷ぶりに拍車をかける要因の一つとなったのである。
それから10年余り後、寛正5年(1464年)に入ると義政は30も手前にして隠居を考えるようになり、当時僧籍にあった実弟の義尋に将軍職を譲ることを打診。これを受けて義尋は還俗し足利義視と名を改めた。ところが翌寛正6年(1465年)、義政と正室・日野富子との間に嫡男・足利義尚が誕生する。
通説では、この義尚の誕生によって義政夫婦と義視との関係が悪化し、また自分の実子を将軍にしようと考える富子が山名宗全(持豊)を義尚の後見役に立て、義視の排除に動いたと長らく語られてきた。とはいえ実際のところは義視の正室として富子の妹が嫁いでいたこともあり、両者の関係は必ずしも悪くはなかったという。また嫡子が誕生したとはいえ、幼児の生存率も低かったこの当時、義視は義尚が無事に成長するまでの中継ぎとしての役割を、義政夫婦らより期待されていたとも考えられている。
しかし当事者間の関係が悪くはなくとも、それを取り巻く有力者の思惑が絡んでくると話は変わってくる。例えば義政の養育係でもあった伊勢貞親などは、あくまで義政による政権(と、自分たちの立場)の維持を望んで義視の将軍就任に難色を示し、また一方で貞親ら将軍側近勢力と対立していた山名宗全(持豊)らは、逆に義政の引退と義視の将軍就任を望んでいた。そして政治路線的にこの両者の中間に位置していたのが、当時の幕府管領であった細川勝元らの勢力であり、彼らとしては前述したように中継ぎとしての義視の将軍就任を支持していたと見られている。
前述したように、後継者問題は足利将軍家だけに限ったことではなかった。この時期「三管四職」の一端を担っていた畠山・斯波両家内でもそれぞれ御家騒動が深刻化しており、例えば斯波氏の家督争い(武衛騒動)では将軍側近勢力や勝元が斯波義敏を推したのに対し、宗全は斯波義廉の後ろ盾として支援に回るなど、方々で各勢力による睨み合いという構図が展開されていた。
文正の政変
この三者のせめぎ合いに俄かに変化が生じたのが、文正元年(1466年)に発生した文正の政変である。この頃、将軍側近勢力は有力大名の御家騒動への介入だけでなく、将軍生母である日野重子の逝去(寛正4年(1463年))に際し、幕府の敵と看做されていた畠山義就や斯波義敏、大内政弘といった面々を赦免することで、彼らを自陣営に引き込むことも画策していた。
しかし赦免された斯波義敏が、将軍側近勢力の後押しや義政の関東方面での政策転換などから家督を継ぐことになるや、当主の座から追われた斯波義廉は巻き返しのため宗全に接近、さらに赦免されたとはいえ未だ逼塞の身にあった畠山義就と、宗全を結び付けるべく奔走もしている。加えて将軍側近勢力に反感を抱いていた勝元もまた、これを支援する動きを見せた。
そのような情勢の中、9月に入ると義政は謀反の疑いアリとして義視の誅伐に乗り出す。これはあくまでも義視の排斥にこだわっていた貞親らの進言を受けての行動であったが、危機感を抱いた義視は勝元を頼り、結果勝元と宗全ら有力大名によって讒訴の罪を問われた貞親らは、京を追われ失脚の憂き目にあったのである。
貞親らの失脚による将軍側近勢力の崩壊は、即ち義政による親政が行えなくなったことを意味し、実際政変の直後には義視を事実上の将軍とした暫定政権も発足している。前述の通りこれは山名派の思惑通りの結果となった訳だが、程なく義政が伊勢一族らの幕府からの追放や、義視の身の安全を保証する事を条件に再度政務に復帰し、その思惑も敢え無く崩れ去ることとなった。この義政の復権は、山名派の勢力拡大を不安視した勝元による働きかけがあったものと見られている。
当初、婚姻関係などを通して良好な関係の維持に努めてきた山名・細川の両家も、この頃になると前出の諸大名の御家騒動や、赤松・大内といった利害の競合する大名(赤松氏は嘉吉の変以来山名氏と、大内氏は貿易の利権を巡って細川氏と対立していた)への対応を巡る見解の相違などから、その関係も次第に冷え切りつつあった。そしてこの政変で浮き彫りになった政治路線の相違が、程なく始まる大乱へと直結していくこととなる。
大乱の幕開け
文正元年の末、畠山義就が軍勢を率いて河内を発ち、上洛の途についた。これは文正の政変前後から繋がりが出来つつあった、宗全の呼びかけに応じてのものであったとされ、入京した義就は宗全らの支援と軍事力とを背景に、義政に畠山家当主への就任を認めさせている。
この一連の行動によって、幕府は事実上山名派の牛耳るところとなったが、当然細川派も黙ってはいなかった。とりわけ畠山家当主のみならず、管領職までも追われた畠山政長は、勝元らの支援を得て巻き返しを図り、翌文正2年(1467年)正月、京都郊外の上御霊社にて政長勢と義就勢との間で戦端が開かれた(御霊合戦)。
この時義政から宗全と勝元に対し、義就と政長への軍事介入を禁じる命令が出されており、実際に勝元はこれに従って静観の構えを見せていたが、これに対して宗全は(合戦に間に合わなかったとはいえ)義就勢へ援軍を差し向けており、結果細川派はこの合戦に敗北を喫したのみならず、盟友であった政長を見捨てたとして勝元への評判までも損ねるという、二重の意味での屈辱を味わうこととなった。山名派と細川派の本格的な衝突は、この時をもって最早避けられぬものとなったのである。
御霊合戦の後、年号が応仁へと改められたこの年の春頃までは、束の間の平穏が保たれていたが、やがて応仁元年(1467年)5月に入ると、諸国にて細川派による軍事行動が相次いで発生、この頃勝元と結託していた赤松政則や斯波義敏も、それぞれの旧領である播磨や越前を奪還すべく侵攻を開始した。5月26日には山名派の一色義直邸が細川派の軍勢によって焼き討ちを受け、これを境に両陣営は全面衝突に入った。これが応仁の乱の幕開けである。
両陣営は地元から兵を集め、続々と京都の各勢力に集結。洛中東側に陣を構えた勝元が率いる東軍と、洛中西側に陣を構えた宗全が率いる西軍の二大陣営が形成された。
開戦当初の各勢力
氏族 | 東軍 | 西軍 |
---|---|---|
戦力(諸説あり) | 約16万 | 約11万 |
筆頭者 | 細川勝元 | 山名宗全 |
足利家 | 足利義政、足利義視 | 足利義尚 |
畠山家 | 畠山政長 | 畠山義就 |
斯波家 | 斯波義敏 | 斯波義廉 |
赤松家 | 赤松政則 | |
大内家 | 大内政弘 | |
その他 | 京極家、富樫家、武田家、北畠家、大友家 | 一色家、土岐家、六角家、今川家、島津家 |
しかし、各軍の中心人物は優柔不断だわ、各軍で相互に寝返りは相次ぐわ、各軍での方針も目的も利害も統一されてないわで、この戦いは単なる二極戦では済まなかった。
直接的であれ間接的であれ、関係していた大名が幕政に関与していたというだけで、正直何のために戦うのかよくわからないままなし崩し的に駆り出された勢力も少なくなかった。歴史学者の永原慶二は、この全体的なモチベーションの低さが戦いをダラダラ長引かせて拡大させた要因の一つだったのではないかと推測している。
戦いの経過
当初は東軍が将軍邸を占拠して義政・義尚・義視の3人を確保し、後土御門天皇と後花園法皇を保護下に置いたことで自らを「官軍」とし、戦況を優勢に展開した。
しかし、8月に大内政弘が大軍を率いて上洛し西軍に合流。戦況は一変し、逆に東軍が将軍邸を中心にした一角に追い込まれる形に変わった。
戦闘が続く一方で両陣営の和議は検討されたが、各大名の目的や利害がバラバラだったために和議の条件もバラバラとなり、交渉は難航。
応仁2年(1468年)11月に義視は義政と対立し、東軍から西軍へ出奔。西軍は義視を将軍として担ぎ、幕府が東西分裂状態になった。
膠着状態が続く中にあって、この戦いでは軽装で機動力のある足軽も戦果を上げたが、軍紀のような統率が執れていたわけではなく、足軽による略奪や破壊が横行し、戦火も街を襲い、洛中の壊滅は増していった。
終息
文明5年(1473年)3月に宗全が、5月に勝元が相次いで死去。両陣営で頼られていた筆頭指導者を失ったことで、両軍に厭戦気分と和睦の機運が高まる。
12月に義政は正式に将軍職を9歳の義尚に譲り、自身は東山山荘(後の銀閣寺と呼ばれる慈照寺)に隠居。とは言え義尚は幼く、富子が実権を握って政務を指揮することとなった。両陣営に多額の金銭を貸し付けたり米投機などで経済的やりくりもして、莫大な利益を得る一方で幕府と朝廷の建て直しを図った。また、両陣営とのこの関係や人脈が後の和睦のパイプ役に役立った。
文明6年(1474年)4月に東軍の細川政元と西軍の山名政豊の間に和睦が成立したが、あくまでトップによる単独講和だっため各陣営で和睦に反対意見も多く、東軍の細川政元・畠山政長・赤松政則、西軍の畠山義就・大内政弘・土岐成頼などが小競り合いを続けた。
文明9年(1477年)に西軍の主戦派だった義就と政弘が各々下国し、西軍は事実上解体。義視は成頼と共に美濃へ退去。11月に幕府は西軍解体が完了したことを受けて「天下静謐」の祝宴を催し、ここに11年間に及ぶ大乱が終結した。
結果・影響
明確な勝者のいない戦いは、両陣営ともにほとんどとくに何も得られずに終わり、それどころか京都を焦土と化し、疲弊した幕府も朝廷も権力と権威を失墜させる結果になった。
幕府内ではその後も将軍職を巡って奪い合いの合戦が相次ぎ、ますます幕府の統制は乱れ、信頼は地に落ちた。そのために、各地の大名も有力者も、庶民すら幕府の指示従わなくなるようになる。
各地では農民たちの一揆も増加し、寺社の独立性や武力を高め、各地の大名も独立独歩で勢力の維持や拡大を図り、実力主義で成り上がる者達が増え、世はまさに群雄割拠と下克上の戦国時代へと移り、大名は戦国武将となっていく。
荒廃した京都を捨てて地方へ移る有力者や文化人、公家も多く、中央の文化や信仰が地方に広まったり、有力者が地方に根付いて勢力を強めたりした。
一方の京都では復興が始まっていたが、権力者達は京都の荒廃を顧みようしなかった。それでも京都の町民達は自力での復興再建に乗り出し、明応9年(1500年)には祇園祭を復活させ、この乱後に西陣織が発展した。
余談
- 寛正5年(1464年)に即位した後土御門帝だったが、乱に巻き込まれて約10年も室町邸で避難生活を強いられ、乱後は皇室行事再興に尽力したが、思うようにはならなかった。
- この時期を舞台にした大河ドラマが、1994年に放送された三田佳子が演じた日野富子を主人公にした『花の乱』である。
- 京都では「戦後」と言えば第二次世界大戦(大東亜・太平洋)後のことではなく、この応仁の乱後を指すという冗談がある。細川護貞氏が「前の戦争(応仁の乱)で細川家の宝物が焼けた」と言った話が元ネタとなっている。
- 2017年は応仁の乱勃発から550年目、終結から540年目という節目に当たり、この戦いへの関心が高まっており、とくに呉座勇一著書の中公新書『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』が人気を集めている。
- 2017年5月21日に京都で山名家と細川家など両陣営の子孫達が対談し、子孫両者が握手を交わして550年の時を越えた和睦を成した。
- かなりグダグダな終わり方をしたせいで、どこを明確な終わりにするか定まってない現在の評価どころか当時の手紙にも「なんかいつの間にか戦(応仁の乱)が終わってた」という内容のものがあったとか……