1901(明治34年)4月19日~1978(昭和53年)3月1日
スミレの花は、ただスミレとして咲けば良いだけであって、それが春の野にどのような影響を及ぼすかは、スミレの預かり知るところではない。
(数学が人類の何に役立つか聞かれた際の答え)
生涯
生誕~京大卒業
1901年4月19日、大阪府で生まれる。しかし、育ちの故郷は和歌山県橋本市。
若い頃から学問の才能を持ち、小学校のころは飛び級などもしていたそうである。その後、旧制粉川高校、旧制第三高校を卒業。旧制粉河中学校3年の時に、父親の書斎からクリフォードという数学者が書いた『数理釈義』という本を偶然見つけて読んだことにより、数学に熱中していくようになる。毎日、中に記載されている定理を画用紙と定規とコンパスを使い証明していたという。
1922年には京都帝国大学理学部(今の京都大学理学部)に入学し、卒業。おかしな行動が目立ち始め、変人と言われるようになってきたのもこの頃からという。卒業後は同大学講師、教授とエリートの道を進んでいく。生涯の伴侶となる小山みちともこの頃に結婚をした。
フランス留学
1926年ごろからフランスのガストン・ジュリアという数学者の論文にハマり、論文が擦り切れるほど読み込んだ。このことから、留学することがあれば絶対ジュリアが教鞭をとっているフランスのソルボンヌ大学行く、と決めていた。
その願いが叶い、1929年から3年間フランスに留学する。ここで岡はソルボンヌ大学に在籍し、ジュリアに師事しながらひたすら数学を研究していく。その熱中ぶりは数学以外の雑務は一切せず、食事も一日に一回しかしてなかったほどであった。そんな中、岡はある一つの研究題材にであう。それが生涯を通して向き合うことになる「多変数複素関数論」であった。これはこの頃注目され始めたが難しすぎるため誰も手に付けていない、まさに岡のためにあるような題材であった。このフランス留学の時期には一本の論文も書いていないが、これに出会えたことが岡にとっての最大の収穫であった。
また、この頃に生涯の親友となる物理学者であり、後に世界で初めて雪を人の手で作ることに成功する中谷宇吉郎、その弟であり考古学者である中谷治宇次郎と出会う。宇吉郎とは下宿先で筋違いの部屋を取り、毎晩のように語り合った。そして兄を頼りに単身で渡仏してきた治宇次郎とも出会う。治宇次郎とは特に仲が良く、岡は治宇次郎との出会いを「フランスでの私の最大の体験であった」と語っている。宇吉郎が研究のためベルリンへと去った後は二人はほとんど一緒にいたという。
しかし、治宇次郎は突如結核に倒れてしまい研究の中断を余儀なくされた。病身の彼を献身的に支え続けたのが岡と、フランスに合流した岡の妻のみちであった。二人は国から渡される留学費用を節約するため狭いアパートに移り、余りを治宇次郎の医療費と生活費にあてた。また、治宇次郎を一人でフランスに残すわけにはいかないと考えた岡は留学期間を延長してもらい、治宇次郎と共に帰国した。
孤独な研究
帰国後は広島の大学に勤務する。4年を過ぎたころに岡はある事件を起こしてしまう。それは川沿いを歩いていた二人の中学生を襲い、彼らから学帽に靴、書籍を盗んだのである。この事は被害者の父兄に訴えられ岡は逮捕されてしまった。さらにこの一件が新聞に大きく報道されてしまった。医者は岡を「過度の勉強により、神経に異常をきたした」と診断する。
この頃に岡は「クザンの第二問題」という多変数複素関数論の非常に難しい問題を研究していた。これは現代数学の根底をなす非常に重要な分野であり、後に「岡の原理」と名付けられた。しかし、これが難しすぎたために精神を病んだというのである。実はこの事件の3か月前に治宇次郎が病により34歳の若さで死亡している。治宇次郎を失った衝撃も少なからずこれに影響していると考えられる。
この事件や精神状態により、大学を休職、後に辞職を余儀なくされ無職となった岡は故郷の和歌山にて13年間にも及ぶ数学研究のみの生活に入る。この間、職もなかったため持っていた田畑を売り、奨学金のみで生活していた。一時期、北海道の大学で一年ばかり教職についたが、基本的には和歌山で生活した。研究が進むうちに生活は一層苦しくなり、家族五人のために土地や財産を次々に売り払い、ついに住む家もなくなり、村人の好意でやっと物置を貸してもらいそこに住んでいた。1945年の敗戦直後の食糧難の時代にはイモをつくり、イモをかじって飢えをしのぎながら、研究に取り組んだ。
この期間で岡はとある記録をつけており、それは起床した時の精神状態を「プラスの日」と「マイナスの日」に分けるというものである。プラスの日は知識欲が頭の底からどんどん湧き、身の回りのあらゆるものを考察しまくるのだが、マイナスの日は布団から起き上がることすらできず無理に起こそうとすると激怒する。このため、岡は今でいう躁うつ病であったと考えられている。
そんな岡を支援し続けたのが妻や友人たちである。妻のみちは岡の身の回りの世話をして研究に専念できるようにし、岡の研究が認められることを信じ続けた。フランスで出会った中谷宇吉郎は岡の精神状況が悪化したと聞けば、自分が療養に来ている静岡の温泉に岡を呼び療養させたり、「雪の結晶の研究」で得た賞金を岡に送金し続けたりした。旧制第三高校時代の同級生であり、京大教授であった秋月康夫は岡の相談によく乗ったり、岡の世界的評価のきっかけとなった論文をフランスの学術誌に掲載させることに尽力したり、職がなかった岡のために奈良女子大学の教授に岡を推薦したりした。
これらの人たちの協力により岡は研究に専念でき、ついに世界に名が知られることになる。
世界的評価と晩年
世界に研究が認められたことにより、岡の名は一躍有名になる。そして1960年には文化の発展や向上にめざましい功績を挙げた者にのみ授与される、最高の栄典である文化勲章を受章する(同年の受賞者は作家の吉川英治など)。なお、これだけでなく業績が認められた後の岡は様々な勲章を受け取っている。
その後は職場でもあった奈良女子大がある奈良に移住し、日本人の心についての哲学書や随筆を著したりしながら、数学の研究をし続けた。
1978年3月1日に奈良で死去。享年76歳。妻のみちも後を追うように三ヶ月後に死去している。
業績の凄さ
業績としては先述した多変数複素関数論の理論の基礎の構築、「岡の原理」の考案の他に多変数複素関数論の3つの問題の解決などもある。また、現代数学において非常に重要な概念の一つに「層」というものがあるが、これが考案されるきっかけを作ったのも岡である。
当時多変数複素関数論は未発達であり、様々な困難があった。しかし岡は困難を乗り越え理論を一人で構築した。これは例えたら未開の広大なジャングルをたった一人で先進国に作り変えた様なもの。そしてこの分野の3つの大問題を解決した(その内1つは約20年の時間がかかった)。
これがどれくらい凄いかというと、欧米の数学者達は1人でこれ等をやったと考えられず「オカ・キヨシ」という若手数学者集団のペンネームだと勘違いしたほどである。また、世界の名だたる数学者たちが岡に会うためだけにわざわざ奈良をおとずれた。
岡は生涯で9本(実質的なものであり、補足的なものも含めると10本)の論文を書いている。これは今だけでなく当時の数学者としても非常に少ない数であるが、この9本の論文全てが最高レベルの出来であるという。
これらの業績から岡がいなければ、現代数学の1/3はなかったという意見も存在する。
人物・思想
相当な変人であった。そのエピソードには事かかず、非常に多いため後述する。
思想
また、随筆家でもあり多くの随筆を残している。その多くが日本人の心や日本に関するものである。
特に著名なものは「情緒」に関する思想であろう。岡は「超高次元の理想である真善美妙を大切にしなければならない。真には知、善には意、美には情が対応し、それらを妙が統括し智が対応する」と述べていた。また、日本人は情の民族であるので「情緒」を大切にしなければならないとも考えている。その他にも科学を優先的にとる西洋的な思想よりも自然を優先的にとる東洋的な思想を大切にしようとも説いている。
初期のころの岡は日本の未来について悲観的なものが多かったが、日本について色々調べているうちに変わっていき、最晩年には本になることはなかったが日本の将来は大丈夫だ、と確信している。
文化勲章受章の際に昭和天皇から「数学とはどのような学問ですか?」と聞かれたときに岡は「生命の燃焼であります。」と答えたという。また、岡は死ぬまで自分が天才と呼ばれることを嫌い続けた。呼ばれるたびに「そんなこと言えるのは私の努力を知らないからだ!」と叱りつけたという。
教育者として
京都大学講師時代には当時生徒であった湯川秀樹、朝永振一郎は「物理の授業よりも岡の授業の方がよっぽど刺激的だった」と言っている。後のノーベル物理学賞受賞者としてそれはどうなの。また広中平祐が未解決の問題を解く方法として制限条件を付けるべきだと発表した時、岡は「それよりももっと問題を理想化して難しくした後にそれを解くべきだ。」と発言し、広中はその方法でフィールズ賞を獲得した。
エピソード
多すぎるので以下抜粋
- 高校時代は一度も歯ブラシを使わなかった。
- 京大講師時代、考え込むと微動だにせず夜8時になったことがある。
- 広島で講師をしていた頃、授業がでたらめで学生から授業をボイコットされた。
- 奈良女子大時代、大学までの道中にある地蔵に石ころを蹴って当たったら大学にそのまま行き、当たらなかったら家に帰った。
- 煙草とコーヒーが好きで食事をせず、ずっと考え事をしていた。
- 交感神経を締め付けるからと着物に帯を巻かなかった。
- 同じ理由でスーツの時もノーネクタイ。
- 長靴が好きで夏場は冷蔵庫で冷やしたものを履いていた。
- 一方で革靴は嫌いで文化勲章受章時には家族が革靴を履かせるのに苦労した。
- そのため、一年を通して長靴を履いてコウモリガサ、よれよれの背広にノーネクタイがトレードマークだった。
- 広島で中学生を襲った後、神社で寝そべりながら金星から来た娘の話を聞いていたという。
- 和歌山で研究していた時代、朝に不動の姿勢で太陽を見ており、夕方になっても同じ姿勢で太陽を見続けていたという。
- 将棋棋士の米長邦雄が岡の講演に呼ばれて行ったが、講師の岡が現れなかった。
- その時の理由⇒「私は京都駅の降りたホームで待っていてくれ、と言われた。だから奈良から近鉄線で京都に出て、近鉄線のホームで一時間待っていた。主催者側の人が国鉄の京都駅を探しているであろうことは察しがついていた。しかし私は、降りたホームで、と言われていた。間違えていたのは主催者側だ。正しい方が修正して間違っている方に合わせる、ということはあってはならないことです。間違っている方が正しい方に合わせて修正しなくてはなりません。だから私は近鉄のホームで一時間待って、それで家に帰りました」
- 別の数学者の講義を聞いている時突然立ち上がり「待て!その研究は方向が180度違う!」と叫び、「正しい方向は・・・」と言って、部屋の後ろを指さし、「正しい方向はあっちだ!!」と言った。
- 考えが思いつくとそこ等にあった木や石で難しい式に計算うを当てはめて1、2時間ほどしゃがみ込んだままのことがあり、通行人に驚かれた。
- 文明の利器が一切使えず、電話もかけれなかった。
- 電気のヒューズが飛んでも自分で直せなかった。
- ライターもまだ使えるのに石か油が無くなると放り投げ、一言。「やっぱりマッチの方がええ。」
- 周囲からは変人だと思われていたが、自分では常識人だと思っていた。
- ある時岡の教え子たちと花見をすることになったが、当日は生憎の大雨。当然花見などできるはずもない。学生「いや・・・でもあの岡先生だし、もしかしてやるんじゃ・・・」「念の為現地集合しよう」そこへ合同参加する予定だったメンバーと共に岡がやってくる。「こんな天気で花見ができるかどうか常識で考えれば分かるではないか!」学生「・・・」
- 文化勲章受章の際、文科省が事前に奈良女子大学側に「本当に渡していいのか?」と相談した。
- 受章の方を聞いた際に一言。「これで定年後もアルバイトをしなくても、食べていける分だけうれしいね。」
- 最後の言葉⇒「まだ、したいことはいっぱいあるから死にたくない。しかし、しょせんだめだろうなあ。あしたの朝には命はないなあ。 計算ちごた。」
- 死ぬ間際に「とうとう解けなかった問題が二つある。」とも言い残した。
その他
- 2018年2月に読売テレビで岡を妻のみち側から見た話であるドラマ「天才を育てた女房」が放送された。(岡潔役は佐々木蔵之介、岡みち役は天海祐希)
- 文化勲章受章時に「生命の燃焼です。」と答えたら吉川英治に「君いいこと言うね。」と気に入られた。
- 米永邦夫に誘われて大山康晴対中原誠の大局を見たことがある。