概要
大山康晴(おおやま やすはる)は将棋の棋士。将棋界の一時代を築いた大名人。
十五世名人、永世十段、永世王位、永世棋聖、永世王将の五つの永世称号を持ち、タイトル獲得数は、羽生善治九段に続き第2位の80期。
1923年3月13日、岡山県倉敷市に生まれる。大阪の木見金治郎九段に入門。兄弟子には永遠のライバルとなる升田幸三実力制4代名人がいた。
17歳で四段となり、1950年に木村義雄名人から名人位を奪取して木村名人を引退へと追い込んだ。その後、升田幸三によって一時無冠となった(升田は王将戦で当時名人だった大山を香落ちに追い込んで勝利している。)。しかし、復調し升田から名人位を奪取し以後13年間守り続けた。これにより升田が名人に返り咲くことはなかった。
その後、将棋界の太陽と呼ばれた中原誠によって名人位を奪われるがそれでも無類の強さを誇り、将棋界最強の10人が在籍するA級に44期連続で在位し、1986年には63歳で名人戦への挑戦権を獲得、1990年には66歳にして棋王戦への挑戦権を獲得するなど、怪物級の活躍を誇った。
1992年7月26日、A級在位のまま69歳で死去した。
棋風は受けの達人であり、正攻法の棋風を生涯貫いた。若手の頃は居飛車が多かったが振り飛車党に転向した。しかし、大山は何故か相振り飛車を指さず相手が振り飛車の時は必ず居飛車にしていた。
余談
大の麻雀好きであったとされ、タイトル戦を戦っている最中にも控室に顔を出し、その場にいる棋士や観戦記者達に「早く仕事(=麻雀)をしなさい」と場を立てさせようとするほどで、2日制のタイトル戦では毎夜雀卓を囲むことが珍しくなかった。そのため立会人を務める棋士についても「麻雀を打てる人にして欲しい」とリクエストしていたほどで、時には封じ手の時間を「みなし長考」扱いにして繰り上げてまで麻雀を打ったこともあるという。