基本プロフィール
いわゆる「羽生世代」と呼ばれる集団の1人。羽生善治と並ぶ天才とされ、「東の羽生、西の村山」と称された。
棋歴
幼少期~プロ入りまで
幼いころに腎臓の難病「ネフローゼ症候群」を患い、少年時代のほとんどを病院内の学級で過ごしていた。
入院中、父から将棋を教わったことで生きがいを見出し、母親に注意されながらも終日将棋を指すなど、没頭するようになる。
10歳から療養所の外出日を利用して、元奨励会会員の運営する地元の将棋教室に通いはじめる。この時にアマチュア四段の認定を受ける。11歳の時にはプロ棋士を多数輩出した名門、広島将棋センターに移った。
「中国こども名人戦」では四大会連続優勝を果たし、タイトルホルダーの森安秀光(当時「棋聖」)に勝利(ただし飛車落ち)、上京した折には、かの伝説の真剣師・小池重明を撃破するなど、その棋力は群を抜いていた。
中学1年生のころ、当時A級八段で最も名人に近い男とされた谷川浩司を倒したいと考え、プロ棋士を目指すようになる。
始めはかつて通っていた将棋教室の元奨励会会員を頼ったが、いったん保留となる。
両親の協力のもと師匠探しを続け、広島将棋センターの支部長の伝でのちに師匠となる森信雄と出会う。
森は一目で村山を気に入り、すぐに内弟子として引き取られる。ここで大阪に移住する。
1983年、5級で奨励会へ入会。1986年に16歳で四段昇段(プロ入り)。
2年11ヶ月でのプロ入りは羽生善治よりも早く、まさに驚異的なスピードであった。
なお、実際には82年に合格していたが、先述の元奨励会会員が親交のあった灘蓮照九段に紹介しており、灘も弟子にする準備を進めていたタイミングでの出来事であったため、待ったをかけられている。(森の師匠である南口繁一九段が仲裁に入った)
プロ入り後
20歳まで体がもたないとも心配されていた中、1989年に無事成人する。成人した際には師匠である森を訪ね報告したほか、東京で同世代の先崎学や郷田真隆と将棋と酒や麻雀などで語り、喜びあった。
1990年10月1日、第13回若獅子戦で佐藤康光五段を破り、棋戦初優勝。
1992年度には第42期王将戦挑戦者決定リーグを勝ち上がり、自身初のタイトル挑戦を決める。当時王将位を保持していた谷川浩司との番勝負は4連敗で敗退。
順位戦ではC級2組は1期抜けを果たすものの、C級1組で3期以上の足止めを食らう。しかし、その後は順調に昇級を続け、1995年にはA級に昇級、八段となる。
1996年度には第30回早指し将棋選手権で田村康介を破り全棋士参加棋戦優勝。また竜王戦予選(1組ランキング戦)などにおいて羽生との対局にも勝つなど(最終成績は村山の7勝8敗)、棋士人生を謳歌していたが、体調の悪化により長い時間の勝負が難しくなっていってしまう。
そしてついに、1996年度のA級順位戦において成績不振によりB級1組に降級する。
直後に進行性膀胱癌が発見され、棋士として全力が出せなくなるほどの過酷な闘病生活を送ることとなる。
片方の腎臓と膀胱を摘出する大手術を終え、97年に棋士としての活動を再開する。復帰後驚異の活躍を見せ、1期でA級に復帰。
しかし、98年に癌の再発・転移が発覚し、1年間の休場を決める。
1998年8月8日に、故郷の広島の病院で棋譜を呟きながら亡くなった。死亡時はA級八段であったが当時からの暗黙の規定(A級在籍中に死去した場合は九段を追贈)や功績を讃えられ、九段が贈られた。
エピソード
かなりの負けず嫌いで、普段の試合の他にも、趣味の麻雀・囲碁でも、負けた際には非常に悔しがっていた様子が多くの棋士から語られている。
現役当時は長髪に鋭い目つきも相まって独特の風貌であり、「怪童丸」と渾名された。
丸々とした顔立ちにふっくらとした体格であったが、これは持病のネフローゼ症候群の症状である浮腫(むくみ)が原因であるとされている。
髪や爪に命が宿っていると考え、切るのを嫌がっていた。しかし、これを周囲から不潔だと噂されていることには傷付いており、師匠に相談したところ「不潔なのは誰でもいややろう。だけど、強くなったら言われなくなる」と励まされたという。
読書家で、自宅には漫画を含め3000冊以上の蔵書があった。推理小説などを好んで読んでいた。また、漫画の中では特に少女漫画が好きで、河あきら、太刀掛秀子、萩尾望都、堀内真人らを好きな作家に挙げている。
師匠とは非常に仲が良く、可愛がられていた。体調が悪い際には師匠がお使いに出掛け、どこにあるかわからない少女漫画を探して奔走するということもあった。
現観戦記者、指導棋士の加藤昌彦とは親しくしていた。
加藤を自宅に招いた際には、将棋盤の上にカップ麺を置いて湯を注ぎ、驚いた加藤が「将棋の神様が怒ってバチが当たる」と言うと、「僕は将棋の盤に親しみをこめて、生活の一部としているんです。だからこうして使うんであって、僕が将棋の神様に嫌われるということはないでしょう」と言い返したという。
加藤が奨励会を離れるときの送迎会で、「加藤さんは負け犬ですよ」とこぼし、これに加藤が「お前、名人になるつもりやったら俺を殴れ」と返して、殴り合いの大喧嘩となった。
のちに『聖の青春』が映画化された際に、これを振り返って加藤が「(略) ぼくは将棋界に帰ってくるつもりはなかったし、村山君もぼくとの別れが寂しかったんでしょう」と語っている。
村山に関連する作品
書籍
『聖の青春』(2000年・大崎善生著):第13回新潮学芸賞、将棋ペンクラブ大賞を受賞。ノンフィクション。作者の大崎は日本将棋連盟雑誌編集部の元編集者。
- 2001年:新春スペシャルドラマ「聖の青春」(村山の出身地である広島の中国放送が制作)としてTBS系列で全国放送され、村山役を藤原竜也が演じた。また演劇台本ともなり、何度か舞台上演されている。
- 2016年:森義隆監督で映画化。村山役を演じる松山ケンイチは役作りのために20kg以上の増量を行った。
『村山聖名局譜』(羽生善治/先崎学・共著)
映像作品
1999年1月29日放送の『驚きももの木20世紀』と2001年2月11日放送の『知ってるつもり?!』においても、その生涯を描いたドキュメンタリーが放送された。
漫画
『聖 -天才・羽生が恐れた男-』(作画:山本おさむ、監修:森信雄)
『月下の棋士』に登場する棋士「村森聖」は、彼がモデルである。
『3月のライオン』に登場する棋士「二海堂晴信」も彼をモデルとしているといわれている。
『ヒカルの碁』に登場する若手プロ囲碁棋士の倉田厚もその容貌から彼がモデルではないかと言われている。
外部リンク
インタビュー・コラムなど