プロフィール
1920年四段昇段。
1926年に八段となると、他の八段格の先輩たちのほとんどを香落ちにしてしまう無双ぶりを発揮。
1935年に名人襲位制が終わり実力名人制になるとさらに前進し、1937年には坂田三吉との南禅寺での戦いを経て名人リーグで優勝、初代名人の座に就く。
戦時中には予備手合いにより他の棋士を負かしたため名人挑戦さえもなく、その実力のほどがうかがえよう。
ただ戦後になると木見金次郎門下の二人が頭角を現して来る。
名人戦では二人の挑戦を続けて跳ね除けたが、1951年の王将戦、升田が4勝1敗で木村からタイトルを奪取する事が確定。王将戦は三番手直りと言ってどちらかが三つ勝ち越すと香落ちになると言うルールがあり、しかも勝者が決まっても第七局まで差し続けた(実際王将戦の初回は木村の5勝2敗だった)。
そこでいわゆる「陣屋事件」が発生して「名人に香車を引いて勝つ」は実現しなかったものの、実力の衰えは隠しようがなかった。
翌1952年の名人戦、大山康晴に1勝4敗で敗れると「良き後継者を得た」との言葉と共に引退。
1986年11月17日に81歳で逝去。将棋のマス目が81マスである事から81歳は番寿と呼ばれ、11月17日も将棋の日であるとまさに将棋人生であった。
順位戦や奨励会を導入したのも木村であるなど普及への功績も莫大である。
なお長男の木村義徳も棋士になったが、父親の弟子ではない。