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名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く


※「勝ったら」は「勝つため」の間違いである。


名前について編集

正しくは「ますだこうそう」と読むが本人は「ますだこうぞう」と称した。


生涯編集

1918年(大正七年)3月21日 - 1991年(平成三年)4月5日


1918年(大正七年)、農家の四男として広島県三次市に生まれる。やんちゃな少年だったが小学2年生のときに兄から将棋を教えられ、熱中していく。棋士になりたいと思ったが厳格な母親は許してくれない。そして13歳(1932年)、どうしても将棋指しになりたかった幸三は家出をしてとりあえず大阪に行く(なんとういう無鉄砲…)。家出に際し、母親の物差しに書いた言葉こそが冒頭の「名人に~」の言葉である。


大阪に出た幸三は同年、木見金次郎という棋士に弟子入りし、1934年にプロデビューを果たした。その才能は関西の大棋士坂田三吉「あんたの将棋は大きな将棋や、木村義雄を倒せるのはあんただけや」と評価されるほどであった。


ここでもめきめきと頭角を現していった矢先、大東亜戦争が開戦した。幸三も徴兵されてはるか南、太平洋に浮かぶトラック諸島に送られ爆撃と飢えで死にかける。しかし偶然にも米軍が幸三のいた島に上陸しなかったため奇跡的に生還する。ただこの戦時中に得た持病は良くなることはなく棋界引退まで幸三を苦しめた。


終戦後は木村義雄塚田正雄大山康晴など昭和を代表する棋士と死闘を繰り広げる。この頃に王将名人、十段(後の竜王)のタイトルを獲得し史上初の三冠となる。また、少年時に夢見た「名人に香車を引いて勝つ」を実現した(詳細は後述)。


棋界晩年は前述の持病により休場が多くなったがそれでも順位戦A級からは一度も陥落することなく1979年引退。引退後は羽生善治先崎学、観戦記者などと囲碁を楽しんだ。それでも棋力は衰えず1982年には当時プロ相手にも引けをとらなかったアマチュアの強豪、「新宿の殺し屋」こと小池重明に完勝している。


1991年(平成三年)、心不全により死去。享年73歳。

死してなお、将棋棋士の憧れとして認知されておりプロ棋士に実施された「指してみたい棋士」のアンケートでは羽生善治を始めとする多くの棋士に投票され、1位を獲得している。


人物編集

  • 一日200本吸うヘビースモーカーで、5歳で初めて酒を飲んだ酒豪毒舌という昭和の無頼派を絵にかいたような棋士だった。
    • しかし愛妻家として知られており、女性関係のスキャンダルとは全くの無縁。
  • ギャンブルは「運に左右されるものは勝負じゃねぇ」と大嫌い。
  • 豆腐は木綿より絹ごし派。
  • 豆腐が原因で木村義雄(木綿派)と口論になった時にこう言った。「名人なんざゴミみてぇなものだ」
    • 木村、カチンときて「名人がゴミなら君はなんだ!?」と質問。
    • 升田の回答「ゴミにたかるハエですかね」 木村「…。」
  • 囲碁もめっぽう強く、死後に日本棋院よりアマ八段が贈られる。
  • 長嶋茂雄と対談した時「野球は3割打ったら上等と言われるが、将棋は7割勝たんと一流とはいえん、精進したまえ」と発言。これにより長嶋はスランプから抜け出せたという。
  • 相手の癖を読むのが非常に得意であり、これにより銃剣の仕合で名手の古参兵に勝利した。
  • よく最大のライバルとして弟弟子の大山康晴が挙げられるが、自身は真のライバルを木村義雄と思っていた。
    • 徴兵先で戦っているときも「あの月を鏡にして、木村義雄と将棋を指したい」と言ったそうな。

棋風編集

居飛車振り飛車も指しこなすオールラウンダー。採用数が居飛車、振り飛車のどちらかに偏っているわけではなく、どちらの戦型も幅広く採用。

の使い方がとても巧妙であった。また、ただ「勝つ将棋」だけでなく「魅せる将棋」を好み、それが後述する新手一生(しんていっしょう)の原動力となる。

新手一生編集

前述の通り「魅せる将棋」を大切にしたため、すでにある定石にとらわれない独自の新しい戦法を大量に作った。この新手たちは居飛車、振り飛車問わず多くありその多さから幸三は「将棋というゲームに寿命があるならば、その寿命を300年縮めた男」と呼ばれた。

以下はその一例である。


このように数多くの戦法を創ったため、死後には「升田幸三賞」というその年度に優秀な新戦法を作った棋士が表彰される賞が設立された。


のだが…編集

実のところ、幸三が作り出して今も知られている新手は意外に多くない。しかし、序盤における構想力が素晴らしかったのは事実。このような矛盾が起こる理由は単純明快、幸三の指した時代は今ほど指した手がすぐに新手とわかるほど技術が発達していなかったからである。当時はPCなんかなく、棋譜すらデータベースとして残らなかった。もし幸三が今の時代に生きていたら、現在分かっている数倍の数の新手を創っていたことであろう。


逸話編集

名人に香車を引いて勝つ編集

名人というのは言わずと知れた、将棋界最高の権威である。その名人相手に香車を引く、つまり自陣から左側の香車を1枚落とした状態で勝負するということである。香車1枚のハンデと言えども、名人が相手ならば勝利するのは非常に難しい。しかし、これを実際に成し遂げたのが幸三である。


名人相手に香車を引いて対局する機会があった棋戦は王将戦である。

創設当初の王将戦では「三番手直り指し込み制」という制度の導入が検討されていた。差し込み制というのは段位に関係なく勝敗でハンデを付けることであり、これは3勝差がついた時点(つまり3連勝、もしくは4勝1敗)でタイトル戦の勝敗は決定し、その後は平手、勝者の香落ちで交互に対局していき必ず七局全て指す、というものである。これに大反対したのが幸三だった。理由は「将棋界の最高権力、名人が指し込まれる可能性がある。その時には名人の権威が地に落ちるぞ‼︎」ということである※1。しかし、時の名人木村義雄は「名人が指し込まれることなんてあるわけないじゃんw」と一蹴。指し込み制が採用されて王将戦が設立されることとなった。


しかし第1期王将戦、王将のタイトルを保持していた名人、木村義雄が4-1で敗北し指し込まれる事態が発生する。しかも木村を指し込みに追い込んだ相手は最後まで指し込み制に反対し続けた男、升田幸三であった。


これにより、名人に香車を引いて対局するチャンスが初めて幸三に訪れた。場所は神奈川県秦野市の老舗旅館、「陣屋」であった。しかし対局前日、今まで様々な不満※2が溜まっていた幸三は「インターホンを何度押しても迎えのものが現れなかったこと」を理由に陣屋に行かず対局を拒否。とうぜん対局は中止。これが世に言う「陣屋事件」である。この事件により幸三には1年間の対局停止が言い渡され、それに対し升田擁護派と升田糾弾派で対立が連盟内で起こるなどのいざこざが起きた。なお、処分は木村の寛大な処置により撤回されている。


※1-指し込み制に反対した理由はその他にも、幸三の所属する関西棋士への連盟内での待遇が悪かったこと、幸三は王将戦を主催する毎日新聞社のライバルである朝日新聞社と仲が良かったことなどがあげられる。

※2-※1の理由に加え、毎日新聞が幸三に辛辣な対応しかとらなかったことなど。また「升田は陣屋のベルを鳴らしていない」、「陣屋のベルはそもそも壊れていた」などの証言があり、升田自身も後年「できたら指したくなかった」と語っているため真相は謎である。



そして陣屋事件から4年後の第4期王将戦にて 大山康晴王将・名人に3連勝で指し込みに追い込む。そして1956年1月19日、20日の対局で大山に香落ちで勝利。13歳の時に夢見た「名人に香車を引いて勝つ」は23年の時を経て現実のものになった。


なお王将戦での指し込み制は1965年に廃止され、それ以降指し込みでの戦いは記録に残っていない。つまり幸三は「歴史上で唯一、名人に香車を引いて勝った男」になったというわけである。


GHQから将棋を守る編集

昭和20年、終戦。日本は連合国軍最高司令官総司令部、通称GHQの占領下におかれた。GHQは日本の民主化、及び非軍備化を進めるため数々の政策を断行。その中には軍国主義に繋がる伝統文化の排斥があった。これにより歌舞伎剣道などの武道、一部の文学国家神道などが標的とされた。その中には日本の伝統遊戯、将棋の排斥も画策された。


この時にGHQから「将棋の話が聞きたい」と名指しで指名された男こそが升田幸三である。将棋を終わらせようとする将官、将棋を守ろうとする幸三、将棋の運命を賭けた討論が行われた。以下はその内容。


  • 将官「チェスと違い将棋というゲームは取った駒を自分の駒として使うことができる。これは戦争における捕虜虐待に当たる。また将棋の名人は戦争中に日本の軍部に作戦立案の協力をしていた。将棋は非常に軍国主義的なゲームだ」
  • 幸三の主張①「チェスでは取った駒は二度と使えない。これは戦争における捕虜の虐待に当たる。それに対して将棋は取った駒にももう一度活躍するチャンスが与えられる。これほど人道的なゲームはない!」
  • 幸三の主張②「お前らアメリカ人はしきりに男女平等を叫ぶが、チェスでは男(キング)が窮地に陥ると女(クイーン)を盾にするじゃないか。女性差別だ!それのどこが人道的なんだ‼︎」
  • 幸三の主張③「名人が作戦立案に協力したと言っているが、その名人の作戦がヘボかったお陰でお前らは戦争に勝ってるじゃないか‼︎それならばなおさらお前らは将棋に感謝するべきだ‼︎」
  • 幸三の主張④「会談で出されたビールが不味すぎる!もっとうまい酒はないのか‼︎」

…とこんな調子で5,6時間話し続け、終いには高官たちに認められてGHQを後にした。これも影響し、今も将棋は日本に残っている。幸三がいなければ将棋は今も存在していなかっただろう

彼のためだけに称号が作られる編集

これだけの業績がありながら、幸三は引退時に永世資格(タイトル戦ごとにある、一定の条件を達成したら引退後にも名乗ることができる称号)を一つも持っていなかった。これだと幸三はただの「升田幸三九段」となってしまう。連盟もそれはちょっと…と思ったのだろうか、彼のためだけに「実力制名人」という称号が作られた。これは3期、あるいは抜群の成績で名人を2期を取ったことがある人のみが引退後に名乗れる称号だが、現時点で呼称されているのは升田幸三(第4代)と塚田正夫(第2第)のみ。しかし塚田は永世称号(永世九段→名誉十段)を獲得しておりそちらの称号で呼ばれるため、現時点でこの称号で呼ばれるのは実質的に幸三しかいない。なので幸三は「升田幸三実力制第四代名人」と呼ばれている。


※なお永世称号を獲得している資格者(渡辺明など)を除いた場合、実力制名人の資格を保持している棋士には佐藤天彦(3期)、資格を得れる可能性があるのは丸山忠久(2期)がいる。

語録編集

  • 新手一生
    • 前述の座右の銘
  • 名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く
  • あの月を鏡にして、木村義雄と将棋を指したい
  • 辿り来て、未だ山麓
    • 史上初の三冠達成時に
  • 強がりが 雪に転んで 廻り見る
    • 陣屋事件を振り返って
  • 本職に自信のあるものは政治家にはなるもんじゃない。あれは本職が半人前の人が出るんです
    • 参院選への出馬を打診された時に
  • 人生は将棋に似ている。どちらも「読み」の深い人が勝機をつかむ。駒づかいのうまいひとほど機縁を活かして大成する
  • 勝負師とは、ゲタをはくまで勝負を投げない者をいう
  • 人間は五十で実力が完成する

関連動画編集

升田幸三の妙手解説

なお、動画で解説をしている長谷部浩平四段は升田幸三が好きすぎてプロ棋士を目指し、升田幸三のひ孫弟子になるために升田の孫弟子の棋士にわざわざ入門したほどの升田の大ファン


関連タグ編集

将棋 棋士 名人 香車 新手一生

大山康晴 木村義雄 雀刺し

GHQ 王将戦


外部リンク編集

日本将棋連盟の升田幸三紹介ページ

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