生涯
生誕~プロデビュー
1943年(昭和18年)6月10日、山梨県の地主の家に4人兄弟の末っ子として生まれる。裕福ではあったが終戦後のGHQが進めた農地改革により大半の土地を失ってしまう。幼少期から兄弟と将棋を指し、最年少にもかかわらずいち早く頭角を現した。
小学校3年の頃には大人を負かすようになり、6年の時に師匠となる佐瀬勇次(名誉九段)が弟子にスカウト。両親は佐瀬の「経済的な面倒は一切見る」という条件を決め手に弟子入りを許諾。これを機に米長はプロ棋士の道を進むことになる。
1963年に19歳でプロ入り。しかし一流棋士のほとんどが10代から20代前半の間にA級在籍、タイトルを獲得するのに対しA級初在籍は28歳、初タイトル(棋聖)獲得は30歳と米長は非常に遅咲きの棋士であった。この理由は「昭和の大名人」こと大山康晴の壁が厚かったことが理由として上げられる。(※1)
※1…対大山戦績は46勝58敗1不戦勝
中原・米長時代
先述の大山以上に強敵となったのが「棋界の若き太陽」こと中原誠である。中々タイトル戦でも勝てず、8度目の中原へのタイトル挑戦となる第20期王位戦にてようやく中原からタイトルを奪取した。このタイトル奪取では二人の戦いは決着がつかず、米長は中原と187局にも及ぶ死闘を繰り広げることとなる。(※2)
その後も米長は着実に実力を示し、1985年には棋聖、十段、棋王、王将のタイトル4つを独占し史上3人目の四冠王となる。(※3)
このように中原と共に棋界をリードしたため、大山・升田時代以後、羽生世代以前の棋界は「中原・米長時代」と呼ばれている。
※2…対中原戦績は80勝106敗1持将棋。また、中原-米長の187局という対戦カードは現在に至るまで、対局数が最も多い対戦カードである。(なお、第2位は羽生善治-谷川浩司の168局)
※3…米長より前に四冠を達成していたのは大山康晴、中原誠。また後に谷川浩司、羽生善治の両名も四冠を達成している。
史上最年長名人獲得~引退
そんなこんなで四冠を達成した米長であったが、四冠達成後、2年ですべてのタイトルを失い無冠となった。なぜなら終盤戦でこそ真の力が発揮される米長に対し、谷川浩司、島朗、南芳一、高橋道夫、福崎文吾などの「55年組」と呼ばれる若手たちは序盤戦を徹底的に研究し米長を圧倒したからである。
停滞を感じた米長はある大胆な行動に出る。それは自宅の隣に買った土地付きの家に将棋の研究会の場を作り、55年組以上に若い棋士たちから序盤戦の教えを乞うたのである。そのメンバー40名ほどおり森下卓、郷田真隆、丸山忠久、森内俊之、佐藤康光、そして羽生善治などの後に時代を席巻する棋士たちも集まっていた。この研究会は「米長道場」と呼ばれている。
「米長道場」で若手の感覚を取り入れ、A級順位戦では8勝1敗で宿敵、中原誠名人への挑戦権を獲得。そして迎えた第51期名人戦の結果は中原相手に4-0のストレート勝ち。49歳11ヶ月、七度目の挑戦にしてようやく名人の座に勝ち取った。なお現在に至るまで49歳11ヶ月での名人獲得(50歳名人)は初獲得は言わずもがな、最年長獲得の記録でもある。
だが、名人の就位式で米長は「来年あの子が私の首を取りに来る。」とA級昇級を決めた、その場にいたある人物を名指しした。翌年、米長の予言通りA級1年目にもかかわらず四冠ひっさげて名人への挑戦権を獲得したその人物に4-2と敗北し名人を失冠する。これが最後のタイトル保持となりそれ以降は挑戦者になることもなかった。その後のA級では成績が振るわず、1998年に4勝5敗にもかかわらず順位を理由に26年間居座ったA級からの陥落が決定。その時に順位戦を指さずに棋士として生きるフリークラス入りを宣言。
2003年(平成15年)4月、記者会見を開き、勝ち残った棋戦のみ指し続け、すべて負けた場合に引退届を提出することを予告する表明を行った。その予告通りに残りの将棋を指し、同年12月2日、郷田真隆との対局が米長最後の公式戦となった。(※4)
そして12月16日、引退。40年の棋士人生に幕を閉じた。
※4…この対局はタイトル戦ではないが特別対局室で行われ、どちらも和服で臨んだ。結果は郷田の勝利。
日本将棋連盟会長~死去
2003年、日本将棋連盟の専務理事となる。2005年には会長の中原の後を受け、会長に就任。会長としての功績は赤字体質の改善、日本将棋連盟の公益社団法人化、大和証券杯などのネット棋戦、マイナビ女子オープン、女流王座戦などの女流棋戦の新設、瀬川晶司のプロ編入試験に代表されるアマチュアのプロ参入規定の整備、名人戦の朝日新聞と毎日新聞の共催実現、動画配信サイトとの将棋のネット配信の連携、電王戦などのプロ棋士とコンピュータとの対戦企画の創設、など枚挙にいとまがない。
特に動画配信サイトとの連携については、いち早くニコニコ動画との連携を開始することによって中年や老人のニコニコ利用者、若者の将棋ファンを大幅に増加。「ニコニコの三大コンテンツはアニメ、政治、そして将棋」と言われる土壌を作り上げた。
また2012年には自ら将棋ソフト「ボンクラーズ」と対局。自慢の囲い「米長玉」をさらに強化し、ソフトの弱点と言われている未知の局面という名の泥沼に引きずり込む「新米長玉」を引っ提げて挑戦したが、結果は敗北。引退後とは言え、「史上初めて将棋ソフトに負けた(元)プロ棋士」の名誉ある(?)称号を手に入れた。
他にも財団法人JKA評議員、日本テレビ番組審議会委員。ニッポン放送番組審議会委員。東京都教育委員などを歴任した。
2008年に前立腺がんを発症。放射線治療を選択し(※7)、一度は完治したかに見えたが2011年に再発。その後病状は徐々に悪化していき2012年12月18日永眠。享年69歳。
※7…この時の闘病記は『癌ノート ~米長流 前立腺癌への最善手~(ワニブックス)』に詳しい
棋風
居飛車党であり、終盤戦に強かった。特に自分が劣勢になった時、奇想天外な手を指し相手を翻弄し、未知の局面に導き逆転する様から力強いその棋風は「泥沼流」と称されるようになった。また容姿や言動から「さわやか流」と称されることもあった。なお、棋風のどこがさわやかかは不明。
また序盤戦は苦手だったが将棋においては悪手とされている角行の上にある歩を突くという「角頭歩戦法」、桂馬を跳ねて奇襲をする鬼殺しを発展させた「新鬼殺し戦法」などの斬新な戦術を考案したりもした。香車の上に玉を置き、玉の可動域を広くするという当時としては掟破りな「米長玉」も考案した。
愛用した「米長玉」などの囲いに代表される、「絶対に詰まない状態(Z)にしてから相手を殴り続ける」、という現代将棋の基本を作り上げた男ともいわれている。
人物
米長理論
彼の思想の代表として「米長理論(米長哲学)」が挙げられる。これは「自分にとってはさほど重要でない消化試合であっても、相手にとって重要な一局であるならば全力で叩き潰せ」という考え方である。この理論の根拠として、「その対局の結果が第三者に影響を及ぼす勝負の場合、自身の勝負に勝とうが負けようがその第三者の悲喜の総量は変わらないが、それが故に結局は自身が全力を尽くしたかどうかだけが残り、手を抜いてしまっては純粋に、自身にとってマイナスである。(『米長の勝負術』より)」と語っている。
実際に米長は、
- 19歳だった頃に負ければプロ資格が無くなる、という棋士と対局。手を緩めるべきか懸命に考えた挙句、全力で指すことを選んだ。
- 手を緩めることを選んでいたら、プロ棋士としての自分はいなかったと後に語っている。
- 順位戦最終局で勝てば昇級という棋士の最終局の相手が米長であった。この棋士は「温泉旅行に招待する代わりにわざと負けてくれ」と米長に頼んだが、きっぱりと断った
- 最終局は米長が勝利
- 順位戦にて「米長との対局に勝てばA級昇級」だった大野源一八段(当時)との対局にて自分にとっては消化試合かつタイトル戦でもないのに和服で対局に臨み、「絶対に手を抜かない」という意思を提示した。
- この時、米長は7勝5敗と昇級にも降級にも関わっていなかった。結果は米長の勝利。
- 米長は翌年にA級昇級を果たすことになる。この要因として「この対局で手を抜かなかった」こと、「図らずも米長の援護によってA級昇級を果たすことになった中原誠がB1からいなくなった」ことがあげられる。
現在、この米長理論は将棋界の隅々に浸透している。羽生善治をして「将棋界の要であり礎でもある」と言わせるほどであり、米長一番の功績と謳われることもある。
人間関係
弟子が多いことで知られ、棋士及び女流棋士になった弟子に先崎学、中川大輔、中村太地、杉本和陽、林葉直子などがいる。
女癖の悪さで知られ、桐谷広人の婚約者を寝とったこともある。
エピソード
とにかくおかしなエピソード(特に下ネタ)が多い。代表的なエピソードを以下に挙げる。
- 初代竜王戦で初代竜王の座を島朗と対戦。結果は0勝4敗のストレート負け。あまりの悔しさにタイトル戦が行われたホテルの自室から大浴場まで全裸で絶叫しながら疾走した。
- 南芳一から王将を奪取した際の打ち上げで「あまり人に見せるものではないですが…」と前置きしつつ弟子の先崎と共に裸踊りを実行。
- 目撃者「裸踊りで勃〇した人は初めて見ました」
- 「ストレス解消法は?」との質問には「口に出すわけにはいかない」
- 師匠に破門すると脅され一言。「私を破門すれば恥をかくのはあなたですよ?」
- 師匠が一日に何時間も将棋勉強をした、という話をした際に一言。「私は5時間、6時間もできるような生ぬるい勉強はしていません」
- 師匠と喧嘩した時に一言。「あなたと同じようにやったのであれば、あなたどまりになっちゃうじゃないですか」
- フォーカスに全裸を載せた。
- 母親に「師匠が高校に行くことを反対している」と言ったら母親が一言。「師匠の言うことはもっともだ。これからの時代は高卒じゃ不安だから大卒になれ。」
- 将棋連盟会長時、他の理事たちが真面目に写真を撮っている中、一人だけ笑顔でダブルピース
- 米長について語った升田幸三「彼だけは会長にしてはいけない」
- 奨励会時代、将棋会館の二階から放尿
- A級棋士時代、谷川浩司に完敗し悔しさのあまり将棋会館の4階から放尿を試みる。(棋士たちに止められ、未遂となる)
- 加藤一二三と対戦した際、トイレで会った観戦記者に「ここだけは加藤さんに負けないんですがね」と逸物を見せつける
- 瀬戸内寂聴に「先生はいつ最後にS〇Xしたの」と質問
- 「ま〇こ知新」「正常位よ永遠なれ」という本を出版しようとした
その他
将棋解説の分かりやすさで知られ、羽生善治がNHK杯で「5二銀」の妙手を指した際も解説をしていた。
保守派として知られ、東京都教育委員時代には国旗掲揚と国歌斉唱の義務化を推進した。2004年の秋には園遊会にて当時の天皇に「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と述べた際「やはり、強制になるということではないことが望ましい」と返答を受け、日本中で物議を醸しだした。ちなみにこの時米長は「そう、もちろんそうでございます。素晴らしいお言葉ありがとうございます」と礼を述べた。
一方、保守派の言論人として知られながらも「政党で真っ先にいちばん感謝しなければならないのは日本共産党」とも発言している。(日本共産党の機関紙であるしんぶん赤旗は1970年以来、将棋・囲碁の若手の登竜門である新人王戦を開催しており、その棋界への貢献が大きかったため。)
語録
- 「兄達は頭が悪いから東大に行った。自分は頭がいいから名人(将棋指し)になった。」
- 3人の兄全員が東大に入学したことに対しての言葉であり、米長の発言で最も有名な言葉。なのだが…
- 実際は芹沢博文九段が「米長だったらこういうこと言うだろうな」というジョークであり、米長はこのような発言をしていない。ところが米長自身もこの発言について積極的に訂正はしておらず、それどころか林真理子との対談で「それは芹沢博文という先輩の作り話で、僕はそういう本当のことは言わないんです(笑い)」と話しており、「本当には言ってないが、あながち嘘ではない話」という扱いになっている。
- ちなみに兄の返答→「あいつの兄貴は馬鹿でないと務まらん」
- 「この間、兄弟そろったとき、どうも東大卒の3人の給料より私のほうが年収はちょっと多いかったので兄たちはクサっていました。」
- こちらは実際に言った言葉で「兄達は~」のジョークを補完させる内容である。
- 「矢倉は将棋の純文学」
- 「将棋における矢倉=純文学のように伝統のある高尚なもの」というポジティブな意味で言われたという訳ではなく「矢倉という囲いはネチネチしている=純文学もネチネチしている」というネガティブな意味で言われた、というのが正しい。
- 「将棋界には八百長はない。これは日本将棋連盟会長の私が断言する。米長哲学が浸透しているからである。自分には消化試合であっても、相手にとっては一生を左右するほどの大勝負には全力投球すること。それができない者は、この世界では見放される。この教えは、小中学生の頃にプロ志望している子どもたちにも、骨の髄まで浸透しきっている。であるから、将棋界には八百長はない。」
- 2011年、大相撲の八百長が大問題となった際の発言。先述の米長理論の根底に存在する原理である。
- 「人生全部がそこにかかってましたからね。寂しいと言えば寂しいですけど…『熟年離婚』ということではないでしょうか。「新しい生き方を俺は探すからね」…ってことじゃないでしょうか。寂しくないと言えば嘘ですがそりゃ。」
- A級から陥落しフリークラス宣言をした際の発言。
- 「横歩も取れないような男に負けては御先祖様に申し訳ない。」
- 王将戦にて「地蔵流」、南芳一王将(当時)に挑戦した際の挑発。
- この挑発に南は乗り、7局中2局で横歩取りを指した。2局の結果は1勝1敗であったが七番勝負は米長が勝利し、王将の奪取に成功している。
- 「盤外戦術は不利な方がやると相場が決まっている。そんなものをしかけてしまっては、不利と焦りを認め、相手に自信を付けさせるだけでかえって損。」
- 後年の発言。自分の事を棚に上げているって?それ以上いけない。
- 「名人は選ばれた者がなると思っていたが、やはり奪い取るものだった。」
- 「将棋に勝因はないんです。あるのはすべて敗因です。」
- 「30年後の将棋ファンは升田幸三、大山康晴の将棋より私の将棋を評価するだろう」
- 「最近、お前はだらけている。目がな、目が死んでいるんだ!おま●こを見るような目で、将棋盤を見ろ!!」
- 一番弟子の伊藤能が三段リーグで不調だった時の激励
- この発言を聞いた後、伊藤は三段リーグを2位で通過しプロ棋士となった。
- 「うんこなう。快心の作です。直径2センチで長さ80センチが一本にゅーっ。幸せです。」 (Twitterより)
成績
- 対戦成績:1103勝800敗(勝率0.579)
- タイトル獲得通算数:19期(名人1期、王位1期、棋王5期、棋聖7期、王将3期、十段2期 歴代6位)
- 一般棋戦優勝回数:16回
- 永世称号:永世棋聖
その他記録
- 史上三人目の四冠王
- 史上四人目の1000勝達成
関連タグ
清滝鋼介…りゅうおうのおしごと!に登場する棋士。関西将棋会館の4階から放尿を試みる、弟子と共に裸踊りをする、「清滝道場」と呼ばれる若手を集めた研究会を開くなど、米長をモデルにしていると思われる。