メンバー
それぞれの活躍
まず真っ先にメジャーデビューしたのは高橋道雄である。
1983年王位戦にて内藤國雄を破り五段でタイトル獲得(郷田真隆に破られるまで最低段でのタイトル獲得だった)。
高橋は翌年加藤一二三に敗れ王位を失うが、翌年リターンマッチに成功し4タテで奪還。
続いてその名を売ったのは中村修だった。
1984・85年の年またぎの棋聖戦にて米長邦雄に挑戦(1984年時点では2勝1敗だったが、1985年になり2連敗でタイトル獲得ならず。なお米長はこの防衛で「永世棋聖」の座に就いた)、1985・86年の棋聖戦にも挑む。その時は3タテもその直後の王将戦にて中原誠を破り、高橋に続きタイトルホルダーに就任。当時最年少王将となった(更新したのはやはりと言うべきかこの人)。
そして1986~1988年は、55年組の大活躍の年となった。
まず1987年高橋は谷川浩司から棋王を奪い二冠王に就任、中村は中原誠のリターンマッチを退け、そしてさらに他のメンバーも活躍する。
まず南芳一(と言うかこの時すでにA級八段だった)が棋聖戦に登場、1986・87年の年またぎ戦は桐山清澄棋聖に敗北するが1年後の87・88年ではタイトルを獲得。さらに88年の王将戦では同じ55年組の中村からタイトルを奪い二冠王に就任。
さらに塚田泰明が1986年に「塚田スペシャル」を編み出し22連勝を記録、翌年には中原誠から王座を奪いタイトルホルダーとなり、この結果当時の七大タイトルの保持者が全員異なると言う「完全戦国時代」が到来した。その内3人が55年組(中村・高橋・塚田、後は中原・谷川・桐山・福崎文吾)である。その年には塚田も南に続きA級昇級している。
その22連勝の記録を塗り替えたのが神谷広志であり、1987年になんと28連勝を記録。藤井聡太に抜かれるまで残っていた大記録である(ただし藤井聡太の連勝にはアマチュア戦が混じっている)。
翌年の1988年には、6人目の55年組が登場。その名は島朗。
初代竜王戦にて米長邦雄を破ったB級2組・六段の彼は初代竜王としてその名を刻んだ。
しかし……
そんな55年組だったが、平成時代に入ると雲行きが怪しくなる。
そう、羽生世代である。
そして、谷川浩司だった。
まず王将位を南に明け渡した中村修はその後一度もタイトル戦に出られず、南も米長邦雄から王将を奪われ、すぐリターンマッチして取り返したが谷川に王将を明け渡す事に(その後王将位はあの伝説の七冠独占をかけた戦いまで谷川の物だった)。さらに棋聖の位も田中寅彦・中原誠を経て屋敷伸之の手に渡り、屋敷から奪還するもやはり谷川に渡ってしまった(この棋聖が、現状55年組の最後のタイトルである)。
そして平成元年谷川から奪った棋王(なおこの勝利により南は25歳で九段になった)は、島から竜王を奪った羽生善治に渡ってしまう。その後羽生は11期にわたって棋王位を守り、その間南や高橋も挑戦したが退けられた。
さらに塚田も一年で王座を中原誠に奪還され上述の通り二十代でA級に上り詰めるも1995年、加藤一二三・有吉道夫と言う大ベテランたちに敗れ南共々A級陥落。ちなみにこの時下から上がって来たのが島であり、名人戦は羽生VS森下卓だった。
そして高橋であるが、1988年谷川に棋王を奪還され福崎から奪った十段がなくなってからは普通の九段であったが、1992年中原誠名人に挑戦。第4局まで3勝1敗としあわや「将棋でも高橋名人誕生か」と言われたが、そこから3連敗で名人獲得失敗となってしまった。
それでも彼らは戦う
そんな訳で表舞台から後退してしまった55年組だが、順位戦では二人の棋士が奮闘を続ける。
まずは島朗。1995年にA級に上った彼であったが1999年、負ければ降級確定と言う状況から連勝(しかも2戦目はこれまで順位戦全勝だった谷川浩司)し残留決定。2年後陥落するもすぐにA級復帰した。
続いて高橋道雄。1996年にA級陥落、2003年にはB1でも下から2番目(この時は降級が最下位だけだった)となってしまうが、翌年二度目のA級復帰。だが1年で陥落、2006年も降級一歩手前まで落ちてしまうが、翌年からは2年連続次点と成績を上げ、2009年には三度目のA級順位戦復帰、しかも翌年には2位にまでなった(まさかこれの影響でもないだろうが)。
また中村修もA級順位戦には登れなかったが落ちる事もなく、2016年高橋・島がC級1組に落ちる中B級2組を堅持。2023年さすがにC級1組に陥落するも、島・高橋共々未だに現役順位戦で戦い続けている。
そして何より青野照市の引退に伴い高橋は順位戦参加棋士としては現役最年長(谷川浩司は四段入りは1976年だが高橋より2歳下、フリークラスになった福崎文吾は5か月ほど年上だが規定上2024年度いっぱいで引退確定)となった。
最後の最後まで、黄金世代の輝きは失われない。