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概要(棋士プロフィール)編集

棋士番号143
生年月日1962年11月7日(58歳)
出身地東京都町田市
師匠佐伯昌優九段
段位九段
保持タイトル-
竜王戦4組(1組-11期)
順位戦B級2組10位(B級1組-11期)

独特の守りの手が印象的であることから「受ける青春」とも呼ばれた。

棋歴編集

年度主な実績
1976年度佐伯九段門下として13歳・6級で奨励会に入会。
1980年度7月2日付で四段昇段(プロ入り)
1983年度第14期新人王戦で宮田利男五段に2連勝し、棋戦初優勝。
1985年度第47期棋聖戦でタイトル戦初挑戦(番勝負は米長邦雄棋聖に0勝3敗で敗退)。第35期王将戦でもタイトル挑戦を果たし、中原誠王将から4勝2敗1千日手で王将位を奪取、初戴冠となった。
1986年度第36期王将戦でも中原名人を4勝2敗で退け、初防衛
1994年度第53期順位戦B級2組で9勝1敗1位の成績となり、12年ぶりの昇級でB級1組に初昇級。第7回IBM杯戦(非公式棋戦)で優勝。
2004年度第63期順位戦B級1組で3勝9敗となり、B級2組へ降級。
2005年度2006年3月10日、第64期B級2組順位戦最終戦で中田宏樹七段に勝ち、史上31人目となる通算600勝(将棋栄誉賞)を達成した。
2007年度2008年1月23日、勝数規定により九段に昇段。
2009年度第68期B級2組順位戦で8勝2敗1位の成績となり、6期ぶりにB級1組へ復帰。
2011年度第70期B級1組順位戦で、3勝9敗となりB級2組に降級。
2020年度第79期B級2組順位戦では、6勝4敗の成績で、降級点を抹消。

余談編集

  • 他の棋士とは異なった新感覚の棋風で頭角を現してタイトル挑戦・奪取し、「不思議流」と呼ばれた。また、王将在位時はひねり飛車も指していて、同世代の塚田泰明九段が採用していた塚田スペシャルの先駆者でもあった。
  • 順位戦では、デビューから2期連続昇級するもの、B級2組はなかなか抜け出せず、12期の足踏みの末にB級1組に昇級した。翌年度に降級するも1年で復帰し、それ以降、しばらくB級1組に留まり、大きく勝ち越しもせず大きく負け越しもせずという状態が続いた。
  • タイトル獲得経験者であり、且つ九段の棋士としては珍しく、A級在籍経験がない(同じ立場の現役棋士では他に福崎文吾九段がいる。また、A級在位歴・竜王戦1組在籍歴があるものの、タイトル戦登場および挑戦者決定戦も経験が無い、逆の立場には井上慶太九段がいる)。
  • 1990年夏、郷田真隆先崎学と共に函館へ旅行に行き、スナックにて女性に将棋盤について語り、「囲碁盤にはところどころに点(星)があるが、将棋盤にはない。」と話した。しかし、実際に対局で使われる将棋盤にも点はあり、郷田に「将棋盤にも点が4つありますよ。」と言われた。しかし、酒に酔っていることもあり、「絶対ない」と譲らなかった。先崎が羽生善治に電話で聞き、羽生が「あるんじゃないの?」と返答したが、それを聞いても譲らず、遂には「羽生時代もこれで終わった。」とまで発言した。ちなみに、羽生はその発言とは逆に、多くのタイトルを獲得して将棋界を席巻し始める頃だった。このエピソードは将棋世界の塚田泰明との対談でも取り上げられ、塚田にも電話で聞き、「ある」と答えられても執拗に「ない」と言い続けていたという。神谷広志にも尋ねたところ、「バカ、付いてるに決まってんだろ」と返された。そして、ギャグの言い訳で一同の爆笑を誘った。また、自分からも自虐ネタとしてこの話題を出すことがある。

関連リンク編集

将棋 棋士 55年組 青春

外部リンク編集

中村修|棋士データベース|日本将棋連盟

中村修(@aromaosamu)|Twitter

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