概要
娯楽性、商業性などよりも芸術性、美的感覚に重きを置いている小説の総称。
娯楽的・通俗的な小説がしばしば大衆文学を称したために広く使われるようになった日本の近代文学独特の用語である。古典や他国の文芸においては単に「文学」と呼ばれる小説がほぼこれに当たる。対義語は大衆文芸や娯楽小説、エンターテイメントなど。
純文学と大衆文学
今の日本では、「純文学」か否かは基本的には掲載誌で判断される。すなわち「文學界」「新潮」「群像」「すばる」「季刊文藝」の5誌に掲載されたものが純文学という判断である。また、各誌が主催する文学賞の受賞作が純文学として扱われる風潮もある。しかし、純文学作家と思われている作家が大衆文芸誌に作品を発表することもあるし、文芸誌以外に連載された小説などはどっちなのか曖昧なことも多い。
「特定のジャンルに属さない小説」「形式的に自由な文芸ジャンル」が純文学である、と言われることもある。他の「ジャンル小説」とは違って純文学には形式的なお約束が基本存在せず、陳腐な表現が嫌われ、むしろ従来の形式をぶっ壊した作品が評価されるのである(大江健三郎や安部公房の諸作品などがまさにそうである)。
とはいえ、日本の純文学では私小説という伝統的な形式が脈々と書き継がれていたり、谷崎潤一郎や筒井康隆は純文学と大衆文学をまたいで新しい表現を開拓していたり、形式的に保守的と言われる推理小説でもいわゆる「三大奇書」などの従来のミステリーの形式を破壊する「アンチ・ミステリー」という種類の小説があったりと、「形式的に保守的なのがエンタメ系で、前衛的なのが純文学」とは言い切れない面もある。
また、娯楽的な大衆小説と考えられていた小説作品が、後世になって高度な芸術性を見出されて再評価されることも少なくない。このような作品の一つが明治30年代に読売新聞に連載された尾崎紅葉の『金色夜叉』である。紅葉の人気に対抗すべく、ライバル紙の朝日新聞は夏目漱石を雇って『虞美人草』を連載させた。現代では漱石は純文学の大家扱いされるのに対し、紅葉の作品のストーリーは通俗的と評され、美文調も古めかしいとして大衆文芸扱いされていたが、『虞美人草』は『金色夜叉』のパロディと言われるほど類似した要素が多い作品で、日本の純文学は最初から大衆文学と密接な関係があったことが分かる。
純文学作家
文学史の書籍などによると概ね以下のように分類されるが、実際には大衆文学寄りの作家も多い。
近代~戦前
- 黎明期:二葉亭四迷、尾崎紅葉、幸田露伴(幸露時代)、樋口一葉
- 自然主義:島崎藤村、国木田独歩、田山花袋、徳田秋声、正宗白鳥、岩野泡鳴、
- 反自然主義:森鴎外(高踏派)、夏目漱石(余裕派)、谷崎潤一郎、永井荷風(耽美派)、泉鏡花、徳冨蘆花(いずれにも分類されない)
- 白樺派:有島武郎、武者小路実篤、志賀直哉、里見弴、長與善郎
- 新芸術主義:芥川龍之介、菊池寛、室生犀星、佐藤春夫、久米正雄、山本有三
- 芸術派:
戦後
- 「第一次戦後派」:野間宏、椎名麟三、武田泰淳、梅崎春生、埴谷雄高、中村真一郎、福永武彦
- 「第二次戦後派」:三島由紀夫、大岡昇平、安部公房、堀田善衛、島尾敏雄、井上光晴、長谷川四郎
- 「第三の新人」:安岡章太郎、吉行淳之介、遠藤周作、小島信夫、庄野潤三、近藤啓太郎、小沼丹、三浦朱門、阿川弘之、曽野綾子
- 戦後の女流文学:野上彌生子、宇野千代
- 「昭和30年代」:石原慎太郎、大江健三郎、開高健、北杜夫、辻邦生、高橋和巳、深沢七郎、有吉佐和子、倉橋由美子
- 「昭和40年代(内向の世代)」:古井由吉、後藤明生、小川国夫、黒井千次、坂上弘、阿部昭、高井有一、大庭みな子、津村節子
- 「昭和50年代以降」:中上健次、五木寛之、丸谷才一、庄司薫、吉本ばなな、村上龍、村上春樹、池澤夏樹、川上未映子、柳美里
昭和末期からはアカデミックに批評していいのは純文学だけというような風潮も無くなっており、大衆文学どころか漫画が研究される時代となったため、純文学という概念も希薄化している。
関連タグ
文学賞 : 芥川賞 三島賞 野間文芸賞 谷崎潤一郎賞 読売文学賞 毎日出版文化賞 川端康成文学賞
矢倉 : 「矢倉は将棋の純文学」と言われる。純文学の恋愛のようにネチネチして進まないという意味。