※文豪とアルケミスト登場人物については佐藤春夫(文豪とアルケミスト)を参照&タグ分け推奨。
あはれ
秋風よ
情(こころ)あらば伝へてよ
(中略)
さんま、さんま、
さんま苦いか塩つぱいか。
――詩集『我が一九二二年』所収「秋刀魚の歌」
概要
1892(明治25)年4月9日、現在の和歌山県新宮市生まれ。慶應義塾大学中退。
学生時代から〈スバル〉などの文芸誌に自作の詩を発表、若い頃から注目を集める。
代表作は小説『田園の憂鬱』『都会の憂鬱』、詩集『殉情詩集』(“純情”と誤解しやすいので注意)など。
詩作や小説だけでなく評論・随筆・絵画・童話・作詞(校歌など)その他諸々、多方面でその才能を発揮した「万能の文人」のひとり。
また芥川龍之介や谷崎潤一郎ら同時代の著名文士達との交友や、太宰治、井伏鱒二、檀一雄、稲垣足穂、大坪砂男(虚淵玄の祖父)ら多くの門人を育成・世話したことでも知られる。
(一度裏切るととんでもない目に遭う「敵か味方か白黒ハッキリつけたがり性格」でも有名だが)
1964(昭和39)年5月6日、ラジオ番組録音中に急死。享年72。
エピソード
まずは門人だった太宰治との因縁が有名。どうしても芥川賞が欲しかった太宰は選考委員のひとりだった佐藤に
「佐藤さん一人がたのみでございます」 |
「芥川賞をもらへば、私は人の情に泣くでせう。(中略)私を助けてください。佐藤さんは私を助けることができます」 |
などと嘆願の手紙を送りつけ、にもかかわらず受賞を逸した太宰はブチギレ、両者共に自分の作品の中で怒りや不満を応酬し合う泥仕合へと発展した(ただ受賞作決定後の選評文を読む限り、佐藤は一貫して太宰の支持者だった立場を崩していない)。
その後(太宰の精神状態が落ち着いてから)和解が成り、『東京八景』の中で「小石川の大先輩、Sさん」として登場し、その「破門を解かれた不肖の弟子と師」の姿が綴られている。
友人だった谷崎潤一郎とも「小田原事件」(「自分の妻を君にやる」約束を谷崎に反故にされた佐藤が怒って絶交した一件。冒頭で紹介した「秋刀魚の歌」はこの時に歌われた嘆き節)や「細君譲渡事件」(いよいよ谷崎の妻を譲り受け、三人連名の通知書状を各方面に送付した一件)など幾つもの日本文学史上に燦然と輝く(?)一大トピックを残している。‥‥本当にそれでいいのか日本文壇。
「(反倫理的自己主張を)これでもかこれでもかと厚かましく押しつけ説き立てる作者の態度を卑しいと思った」「僕は選者でもこの当選には連帯責任は負わない」と、石原慎太郎『太陽の季節』の芥川賞受賞に猛然と反対した。
ただその3年後に発表した随筆『芥川賞の人々』の中では、
芥川賞は不思議と石の字のつく作家に幸してゐるやうで、(中略)それから石原慎太郎、みな芥川賞のなかでも花々しく世にときめいてゐる人ばかりである。 |
と穏やかに振り返っているので、随分その怒りはやわらいだのだろうか。
探偵小説(推理小説)にも長らく関心が深く、江戸川乱歩はその評論や創作小説に感動し勇気づけられ高く評価していた。両者は対談を行ったこともある。
「(若い頃はこのジャンル作品を盛んに書いた)谷崎は昭和期に入るとミステリ周辺作品について語ることさえ厭がるようになったが、佐藤は相変わらずであった」(中島河太郎著『推理小説通史』より抜粋引用)。 |