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概要編集

明治4年、現在の群馬県館林市(当時は栃木県)に生まれる。本名は「録弥」(ろくや)。

館林東学校に学ぶかたわら、旧館林藩儒学者吉田陋軒に漢学を学び、この頃から漢詩文を雑誌に投稿するなど、文学に目覚めていく。


明治19年、兄に従って上京。柳田國男島崎藤村国木田独歩らと交友を持った。明治24年、尾崎紅葉に入門し、小説家を志す。


明治32年に結婚し、出版社の校正係をする傍ら、「田山花袋」の名で小説を発表した。


英語を学びながら西欧文学に触れた花袋は新しい文学を試み、明治40年『蒲団』の発表により、日本の自然主義の確立者として、近代文学会に大きな足跡を残した。

続いて『生』『妻』『縁』の三部作や『田舎教師』を発表し、ヒットを生み出した。


晩年は歴史小説や心境小説に取り組み、その一生を文学ひとすじに歩んだ。

花袋の人間をありのままに描いた作品は、私小説の源となり、後の多くの作家に影響を与えた。


交友編集

尾崎紅葉編集

花袋の師。彼の指導で小説を書き始める。


柳田國男編集

青年時代、ともに詩を志していた親友。当時は悲恋に悩んでおり、花袋にだけこれを打ち明け、花袋はそれを小説にしていたとう。後に恋と文学を諦めて官界に進み、花袋とも疎遠になっていった。


島崎藤村編集

青年時代からの親友。花袋と並ぶ自然主義文学者となった。花袋の死の2日前に藤村が見舞いに訪れ、「この世を辞してゆくとなると、どんな気持ちがするものかね」とまじめに死ぬ気分を質問され、「なにしろ、誰も知らない暗いところへ行くのだから、なかなか単純な気持ちではない」「苦しいかね」「苦しい」という会話がなされたという。


国木田独歩編集

花袋と同学年であり、お互いに尊敬の念を抱く親友であった。柳田、花袋と詩集を共同で刊行した他、日光で共同生活を送るなどしていた。

独歩は30代後半の時に肺結核になり、死去する前に花袋に「すぐにきてほしい」と葉書を送ったが、その時花袋は小説にかかりきりで、「少し書いたら行こう」と思っていたその日の夜に独歩の訃報を聞き「あの時すぐに行けばよかった」と後悔したという。さらに独歩はその臨終の際に「花袋は余の親友なり」という言葉を残して先立ち、葬儀では花袋が弔辞を述べた。その後も花袋は独歩との関係を度々作品の中に書き残している。


森鴎外編集

花袋は鴎外の熱心なファンであった。日露戦争の開戦にともない、写真班として従軍していた花袋は、初対面にもかかわらず軍医部長だった森鴎外の元を訪問した。後日、鴎外のファンだと告白する文章も書いた花袋は、体調不良が原因で帰郷するまでのあいだ、頻繁に鴎外の元に通ったという。


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