タマモクロス
たまもくろす
「芦毛の馬は走らない」。この2頭が現れるまで、人はそう言っていた。
芦毛と芦毛の一騎打ち。宿敵が強さをくれる。
風か光か、その馬の名は、「タマモクロス」。
2012年JRA・CM「THE WINNER」天皇賞(秋)より。
※馬齢は2000年までの旧表記で記載する。
※当馬をモデルにしたウマ娘については、タマモクロス(ウマ娘)を参照。
生涯
誕生からデビューまで
父のシービークロスは三冠馬ミスターシービーと同じく千明牧場出身で、「白い稲妻」と呼ばれた人気馬だったが、八大競走は一つも勝てなかった。
母のグリーンシャトーは米二冠馬シャトーゲイの産駒で、目を見張るような良血というわけではないが現役時代は19戦6勝で開業したばかりの北橋修二厩舎で立派な成績を残していた。
しかしタマモクロスが生まれた錦野牧場は経営難で億単位の借金を抱えており、彼の大成を見ることなく倒産してしまう。そのため、タマモクロスが優勝しても生産者の表彰台はいつも空いていた。
1987年(4歳)
非常にデリケートな性格で、飼い食いが細く、牝馬のように華奢だった為慎重に待たれた末1987年3月1日にデビューするも7着、デビューから3戦目でようやく初勝利をあげるもののここで成績は頭打ちとなってしまう。間も無くして故郷の錦野牧場は倒産。牧場に居た馬達は全て他の牧場に売却されて錦野家は一家離散、さらに母グリーンシャトーがいくつかの牧場を転々とした後に、繋用先のマエコウファームにて腸捻転を発症、13歳の若さでこの世を去ってしまう。タマモクロスはそれを感じ取ったのだろうか、秋に入るといきなり2勝、いずれも2着に7馬身以上もの差をつけての圧勝を飾る。
陣営は菊花賞を目指そうとするも、調教師の小原伊佐美は先のことを考えて菊花賞を回避し、GⅡ鳴尾記念に出走させた。このレースで6馬身差をつけて勝利し、翌年の注目株となる。
1988年(5歳)
前年の二冠馬(皐月賞・菊花賞)サクラスターオーは前年末の有馬記念で骨折し、1988年5月に死去した。
ダービー馬のメリーナイスは古馬になってからは振るわなかった。
そんな中でタマモクロスは5歳世代の中心として期待がかけられていた。
年明けの初戦は京都金杯(GⅢ)で、直線最後方から華奢なその馬体で馬群をすり抜けて勝利し幸先良くスタートを切ると、続く阪神大賞典(GⅡ)では、ダイナカーペンターと同着で勝利。重賞での同着優勝は12年ぶりとなる。
そして、最大の目標であった天皇賞(春)でついにGⅠ初勝利。鞍上の南井勝巳もこれがGⅠ初勝利となった。
宝塚記念(GⅠ)では前年の天皇賞(秋)、マイルチャンピオンシップをともに5馬身差で圧倒し、この年の安田記念も制したニッポーテイオーとの対決となった。当時の宝塚記念は安田記念組のマイラーと春の天皇賞組のステイヤーが雌雄を決する舞台であったが、既にGⅠを3勝し日本最強馬として君臨していたニッポーテイオーの方が距離的に有利と見られており、タマモクロスは2番人気となった。
しかし実際のレースでは直線抜けだしを図るニッポーテイオーを並ぶ間もなく差し切ったタマモクロスが圧勝、GⅠ連勝を飾る。その末脚はレース前に自信満々であったニッポーテイオー陣営が呆気にとられるほど強烈であり、全て計算通りの騎乗だったと回顧した郷原騎手を「これで負けたのなら仕方ない」と脱帽させる切れ味であった。こうして名実ともに日本最強馬の地位を奪取したタマモクロスは王者として挑戦者を迎える秋シーズンへと備えることとなる。
夏の休養期間には札幌競馬場にてファンの前にその姿をお披露目している。この競馬場で400万下すら勝てずにいた1年前に、この馬が王者として戻ってくるとは誰が想像できたであろうか。タマモクロス引退後長い時が流れたが、この馬のように唐突に覚醒し最強まで上り詰めた馬は現在も出てきていない。
秋シーズンは前哨戦を挟まずにそのまま天皇賞(秋)に直行。そしてこれが1歳下のライバル・オグリキャップとの初対決となった。2頭とも88年はここまで無敗であり、共に芦毛ということもあってマスコミは「芦毛頂上決戦」と題打った。
突然の覚醒を遂げた現役最強馬
レースの結果はタマモクロスがオグリキャップの追撃を振り切り、史上初の天皇賞春秋制覇を成し遂げた。
続くジャパンカップ(GⅠ)ではペイザバトラーに敗れて2着も、オグリキャップ(3着)には先着した。
そしてこの年の有馬記念(GⅠ)を最後に引退することを表明。最後はオグリキャップに敗れて2着だった。
天皇賞春秋制覇を含むGⅠ3勝が評価され、年度代表馬に選出されたが、翌年1月7日に昭和天皇が崩御したため、結果として昭和時代最後の年度代表馬となった。