ナゴヤ球場
なごやきゅうじょう
概要
プロ野球チーム・中日ドラゴンズの1軍本拠地としての設備が整っていたが、1997年東区に完成したナゴヤドーム(バンテリンドームナゴヤ)への移転後は、減築や簡素化工事がされて2軍本拠地となっている。ただし、ナゴヤウィメンズマラソンの絡み(ゴール地点がナゴヤドーム)で、オープン戦ながら1軍の試合が行われたこともある。
所有・運営者は、中日新聞社の子会社でナゴヤドームも管理している「株式会社ナゴヤドーム」で、敷地内には選手寮や屋内練習場などがある。公開練習の見学は無料、公式戦は有料である。
歴史
竣工
1948年12月に中日スタヂアム(スタジアムではない)として開場。
様々な事情で工事開始から約2ヶ月という突貫工事でのオープンとなり、観客スタンドは木造であった。
そしてそれが不幸な結果をもたらすこととなった・・・・・・。
1951年8月の惨劇
1951年8月19日昼4時過ぎ、中日ドラゴンズ対読売ジャイアンツ戦の最中にバックネット席上段から出火。風が強く吹いていたばかりに瞬く間に球場全体に火が燃え広がってしまい全焼。さらに付近の民家と工場数軒も巻き添えを食って全焼してしまう。
この火事で観客4人が死亡し、確認された重軽傷者は318人に及ぶ大惨事となった。さらに治療を受けなかったり受ける事ができずに帰宅した負傷者も多数いた模様。
出火原因はタバコの火の不始末であった(詳細は下記の外部リンクを参照)。なおこの火事に巻き込まれた観客の中に、後にドラゴンズの名セカンドとして、このナゴヤ球場(中日スタヂアム)狭しと大暴れした高木守道がいた。
球場閉鎖!?
球場を運営していた旧運営会社「株式会社中日スタヂアム」は、岐阜県新穂高温泉で「中日ロッジ」なる旅館を経営していたが、そちらの経営は思わしくなかった。その弱みにつけ込まれ、手形がやたら金融市場に出回っていた。そのうちのひとつをめぐって詐欺事件が発生。結果1973年5月、「株式会社中日スタヂアム」が経営破綻してしまう。
結果、球場は1972年プロ野球シーズン終了直後の東京スタジアムよろしく閉鎖されてしまう危険性があったが、ドラゴンズの親会社である中日新聞社など地元大手企業の出資により、新会社「株式会社ナゴヤ球場」が設立された。「株式会社ナゴヤ球場」はナゴヤドーム開場に伴いそちらの管理も担当、会社名も「株式会社ナゴヤドーム」に変更し現在に至る。
交通アクセス
観客用の駐車場は無し。
エピソード
- 昔の野球場といえば、優勝決定時などに興奮した観客がなだれ込むことがあり、ナゴヤ球場もその例に漏れず。特に1974年は巨人のV9を阻止しての優勝だったことから一気になだれ込んだため、何とか外野グラウンドに観客を隔離して表彰式を行い、1988年の星野仙一監督初優勝かつナゴヤ球場最後の優勝では観客があまりにもなだれ込みすぎて、選手やコーチは避難し表彰式も監督インタビューも行われなかったほど。このため最晩年には、外野フェンスのさらに外側に昇降式のネットが設けられていたほど(フェンス本体は超えているので当たってもホームランの扱いになる)。
- かつては年に数カード、近鉄バファローズもホームゲームを開催していた。ただ、バファローズのホームゲームの際には、「名古屋線の米野駅が最寄り駅です」と近鉄サイド(球団・鉄道いずれも)は説明していた。あのー、そっからだとどえりゃー遠いんですけど・・・・・・・・
- コンサート会場として使われることがあるのは、野球場では良くある話。だが、試合の無い時(特にオフシーズン)にはゴルフの練習場として使われたことがある、位ならまだしも、なんとサッカーの試合が行われたこともあった・・・・・・・。札幌ドームかよ。
- 怪獣映画ガメラ対ギャオスでは、ギャオスが名古屋を襲撃した際の市民の避難場所として登場。照明器具を活かして光に弱いギャオスから市民を守り抜いた。