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ライスシャワー(競走馬)の編集履歴

2021-04-04 22:33:28 バージョン

ライスシャワー(競走馬)

らいすしゃわー

日本中央競馬会(JRA)に所属していた競走馬。日本競馬史上最高の「ヒール」と称される。

※この記事では、馬齢表記に旧表記を用います。


'93年 天皇賞(春)

極限まで削ぎ落した体に、鬼が宿る。

王者・メジロマックイーンの三連覇を阻んだ、漆黒のステイヤー。

ヒールか、ヒーローか。悪夢か、奇跡か。

その馬の名は…


― JRAプロモーションCM 「The WINNER 天皇賞(春)編」 より


誘導

※当馬をモデルとするウマ娘については「ライスシャワー(ウマ娘)」を参照。


誕生~3歳時代

1989年3月、北海道のユートピア牧場で誕生。

父は桜花賞馬シャダイカグラを輩出したリアルシャダイ、母ライラックポイント、母の父が生涯無敗のまま引退し、菊花賞馬レオダーバン等を輩出したマルゼンスキーという良血馬だった。

生まれた直後から優れた身体能力を発揮しており、様々な所から購入の申し出があった。

しかしユートピア牧場所有者の栗林英雄氏は、生産馬を自分の馬にする「オーナーブリーダー」であったため、それらの申し出をすべて拒否。そのまま英雄氏の馬となった。奇しくも戦前の最強牝馬クリフジは英雄氏の父・栗林友二氏の所有馬で、勝負服『青服・赤袖・茶たすき』も同じである。

その後、馴致育成のため千葉県の大東牧場へ移動される。

ここでも高い身体能力を発揮した上、馴致に手がかからなかったため育成はサクサク進んでいった。


1991年に、美浦トレーニングセンターに在籍していた調教師・飯塚好次から、心臓の音の大きさに注目されて競走馬としての素質を見出され、そのまま飯塚の厩舎に入厩。

「この馬に触れた人に幸福が訪れるように」という意味を込め、「ライスシャワー」と名付けられた。

1991年 デビュー・3歳戦

当初、ライスシャワーのデビューには7月の札幌競馬場の新馬戦が予定されていた。

しかしこの新馬戦の前に熱発を起こし、レースを回避。デビューは1か月後にまでずれ込み、新潟競馬場でのデビューとなった。

この時の鞍上には、飯塚厩舎の専属騎手である水野貴広(現・調教師)が迎えられた。

単勝オッズ3.1倍の2番人気だったが、1番人気のダイイチリユモンをクビ差で制し1着。

デビュー勝ちを飾ったライスシャワーは、早速重賞競走のGⅢ新潟3歳ステークスに出走した。

しかし、このレースでは出遅れが響き11着と大敗してしまう。

次走の1勝クラス・芙蓉ステークスこそアタマ差で勝利したが、直後に骨折が発覚し、休養に入ることとなった。


1992年 牡馬クラシック

休養から復帰したライスシャワーは、皐月賞トライアルのGⅡスプリングステークスに出走(このとき鞍上は柴田政人を迎えた)、そこで相手になったのが朝日杯3歳ステークス優勝馬で、ライバルとされるミホノブルボン。ブルボンは8馬身ぶっちぎりの圧勝で、ライスシャワーは4着だった。

本番の皐月賞、ここで鞍上に主戦となる的場均を迎えるも、8着と完敗。

さらにダービートライアルのGⅡNHK杯でも着外に沈んでしまった。


大敗続きだったため、本番の日本ダービーで16番人気という超低人気だったが、それも致し方ないことだろう。


このレースでライスシャワーはマヤノペトリュースとの接戦で2着に入った。1着のミホノブルボンにこそ4馬身差をつけられての完敗だったが、それでも日本ダービーで2着に入ったのは事実である。


そして夏場に休養を挟んだライスシャワーは、秋シーズンへ向け着々と力を蓄えていった。


秋になり、ライスシャワーは菊花賞のトライアル競走GⅡセントライト記念と、GⅡ京都新聞杯へ出走。

セントライト記念では的場が函館3歳ステークスに騎乗するため田中勝春が代打騎乗しており、レースはレガシーワールド(のち1993年ジャパンカップ優勝)の2着、鞍上が的場に戻った京都新聞杯ではミホノブルボンの2着。ただし1馬身半差と着差は迫っており、レース後、的場は馬主の栗林氏夫人に「逃げ馬のキョウエイボーガン(神戸新聞杯馬)が出走して、ミホノブルボンの先頭を奪えるようなら、ミホノブルボンを負かせるチャンスはあります」と語り、いよいよクラシック菊花賞へと参戦する。


菊花賞

遂に迎えた、第53回菊花賞。

当日、競馬ファンの興味はほとんどがミホノブルボンへと向かっていた。

なぜならブルボンはここまで無敗であり、このレースに勝てば「皇帝」シンボリルドルフに次いで2頭目となる無敗の3冠馬となるからである。

もちろん1番人気はミホノブルボン。ライスシャワーはそれを追う単勝オッズ7.3倍の2番人気だった。


そして、レースがスタート。まず神戸新聞杯勝ち馬・キョウエイボーガンがハナを奪う。ライスシャワーは5番手辺りで競馬を進める。

2周目の最終コーナーでキョウエイボーガンが失速すると、ミホノブルボンがすかさず先頭へ躍り出た。

そのままミホノブルボンが先頭でゴールする。そう、多くの観客が思っただろう。


しかし、直線半ばで1頭の馬が飛んできた。他ならぬ、ライスシャワーである。

直線半ばでミホノブルボンを差し切ったライスシャワーは、それまで後塵を拝し続けたミホノブルボンに遂に先着した。

1着でゴールしたのは、ライスシャワーだったのである。

クラシックを制覇し、さらにレコードタイム3分5秒0を叩きだした。


しかし、観衆は素直にライスシャワーを祝福する事は出来なかった。

なんといっても無敗の3冠が目の前で阻まれたのだ。それも今までブルボンに負け続けた馬に、である。

スタンドからはライスシャワーを祝福する歓声ではなく、3冠を阻まれたミホノブルボンへの同情とライスシャワーに対する怒りにも似た感情が入り混じったどよめきが聞こえていた。この時、関西テレビで実況していた杉本清アナウンサーは


あぁ~っという悲鳴に変わりましたゴール前!昨年のレオダーバンに続いて、ダービーの2着馬が菊花賞を制しました!


と実況している。

このときから、ライスシャワーにはある種の「ヒール」役が定着することとなる。


その後ライスシャワーは有馬記念に出走した。

2番人気に推されたものの、レースでは再結成を果たしたメジロパーマーダイタクヘリオスの大逃げコンビが10馬身以上という大逃げを行った。

最終的にダイタクヘリオスが失速し、メジロパーマーが逃げ粘り、2着のレガシーワールドとの接戦の末に勝利。

ライスシャワーは8着だった。なお、3着にはいつも通りナイスネイチャが入った。


1993年 5歳戦

1993年、古馬となったライスシャワーは、GⅡ目黒記念に出走するが、以前に下したマチカネタンホイザに敗れ2着止まり。

だが、次走のGⅡ日経賞では1番人気に支持される。

その人気に応え、2着のイタリアンカラーに2馬身半の差をつけて快勝した。


そして、陣営はライスシャワーをある古馬の最高峰のGⅠ、3200mの長距離を走りぬく過酷なGⅠ、天皇賞(春)である。

天皇賞(春)

ライスシャワーは、日経賞での勝利を手土産に天皇賞へと出走した。

しかし、この年の天皇賞にはある強敵が存在していた。

単勝オッズ1.6倍。驚異的な人気を得て春の天皇賞3連覇を狙う「最強のステイヤー」、メジロマックイーンである。

天皇賞(春)2連覇に加え菊花賞も制している、名実ともに現役最強のステイヤー。

そんな馬が、春の天皇賞3連覇という大偉業をかけて出走してきたのだ。


マックイーンに対し、普通の手では勝ち目がないと判断した調教師らは、ライスシャワーに徹底的なスパルタ調教を施した。

「マックイーンに勝つ前に壊れる」と言われるぐらい過酷なものを。

結果、当日の馬体重は430kgまで減少。日経賞から-12kgもの体重減であり、限界まで体を絞ってきた。


そして始まった天皇賞。

前年の有馬記念を制したメジロパーマーが相方不在のまま大逃げを打つと、マックイーンはそれに追走し2番手。ライスシャワーは両馬、特にマックイーンをマークしながら走っていた。

そして、パーマーの失速と同時に先頭に立ったマックイーン。ここで、ライスシャワーはすかさず仕掛けていった。

最終的に、抜け出したライスシャワーがマックイーンに2馬身半の差をつけ勝利。マックイーンの天皇賞3連覇を阻止した上にレコードタイム3分17秒1を叩きだし、見事に春の盾を手中に収めたのである。

この時、実況した杉本清アナは「関東の刺客、ライスシャワー!!」というフレーズを使用した。

前年に勝利したミホノブルボン、そして今回勝利したメジロマックイーンの2頭はともに栗東トレーニングセンター、つまり関西の馬だったのである。

それら関西の馬の記録を、ライスシャワーはことごとく阻んでいた。まさに「関東の刺客」である。


ところが、それの反動が確実に起きたらしく、秋シーズンはライスシャワーは大きく調子を落としてしまう。

秋初戦のGⅢオールカマーで3着となったのを皮切りに、天皇賞(秋)6着、ジャパンカップ14着、有馬記念8着と低迷。


1994年 6歳戦

翌年、6歳となってもライスシャワーはGⅡ京都記念5着、GⅡ日経賞2着と勝ちきれなかった。

その上、天皇賞(春)への調整中に右前管骨を骨折してしまう。

競走馬としてやっていけるかが危ぶまれる程の重傷であり、一時期は引退も検討された程である。

しかし、長距離でしか結果を残していない上に小柄な馬体だったため、種牡馬としての受け入れ先は見つからず、現役続行となった。

その後体勢を立て直し、休み明けのぶっつけで年末のグランプリ有馬記念に出走、ここでは同年の三冠馬ナリタブライアン、当時マル外最強牝馬と称されたヒシアマゾンに次ぐ3着で、古馬最先着と復調の気配を見せた。

しかし、ただで転ばないのがレコードブレイカーと呼ばれる所以。

このレースには、それまでの有馬記念で3年連続3着の珍記録を持つナイスネイチャも出走していた。ライスシャワーは、有馬記念4年連続3着というナイスネイチャの大異業を見事に阻んでいたのである。


1995年 7歳戦

翌年、7歳となっても勝つ事ができないライスシャワー。

GⅡ京都記念、GⅡ日経賞に去年に引き続いて参戦したものの、両レースとも入着外の6着に敗れた。


そして、もう終わったと言われながらも2年ぶりに出走する天皇賞(春)。

3冠馬ナリタブライアンが故障によって回避しており、本命馬不在の中でのレースとなった。それまでのスランプのためか、単勝オッズは5.8倍の4番人気。


しかし、レースでは800m近くに渡ってロングスパートを敢行。

第4コーナーで先頭に立ち、後続を引き離しにかかるが後ろからステージチャンプが追い込んできた。

そのまま2頭並んでゴールイン。ステージチャンプに騎乗していた蛯名正義騎手はガッツポーズを行った。ライスシャワーは僅差で敗れたのか?

勝負の行方は、写真判定にゆだねられた。

そして写真判定の結果、勝利したのは・・・





ライスシャワーだった。





ハナ差(16cm差)でステージチャンプを抑え、ライスシャワーが先着していたのである。

それまで9戦、実に2年ぶりの勝利。

ライスシャワーは、見事に復活を果たしたのだった。

そしてこの瞬間、競馬ファンのライスシャワーへの評価は一転した。

様々な記録を阻止し続ける「ヒール」から、挫折を乗り越え復活した「ヒーロー」へと─────


宝塚記念

復活を遂げたライスシャワーは、春のグランプリ宝塚記念に出走した。

当初は休養の予定だったが、前述の理由から種牡馬としての受け入れ先がその後も見つからない日々が続いていたこともあり、引退後の繁殖生活に入る際に中距離レースでの勝利もあったほうが良いだろうという考えや、斤量がそれまでよりはるかに軽い56kgだったこと、ファン投票で1位に推されたことや阪神・淡路大震災により、得意とされた京都競馬場でのレースになったことなどがあり、レースへの参戦が決定した。

ライスシャワーは単勝オッズ6.0倍の3番人気だった。


そして、レースがスタートした。

いつも通り、最後の直線で追い込んでくる戦法を取っていたためか、ライスシャワーは後方でレースを進めていた。しかし、鞍上の的場はレースの間も何か不穏な空気を感じており、「今日は勝ち負けはいい、普通に回ってこよう」と無事に走らせることに専念していた。


しかし、第3コーナーの下り坂を回っている最中、ライスシャワーの身体のバランスが突如崩れ落ち、前のめりになるようにそのまま転倒してしまう。

鞍上から落馬した的場は軽い打撲で済んだものの、当のライスシャワーはムリな姿勢で立ち上がろうとしたためか、左第一指関節解放脱臼に加えて粉砕骨折を発症しており、もはや手の施しようがない状態であった。

その場で予後不良と診断され、あまりの症状の重さから馬運車にも乗せることもできず、幔幕の張られたターフ上で安楽死の措置が執られた。

的場はライスシャワーの遺体を載せた馬運車に対し最敬礼を行って相棒を見送り、ライスシャワーを担当していた厩務員も手綱を手に持ったまま号泣した。


ライスシャワーが競走馬として花開いた菊花賞

長い不調から奇跡の復活を果たした天皇賞。その2つのレースの舞台となった京都競馬場。

ライスシャワーの生き様がしっかりと刻み込まれた淀の地で、彼はその一生を終えたのだった。


同年のJRA賞では特別賞を追贈された。


京都競馬場には、彼の鬣を納めた慰霊碑が建てられており、今でもファンや関係者からの供花が耐えない。

碑文には、次のように刻まれている。


「疾走の馬 青嶺の魂となり」


ライスシャワーの魂は、今でも淀の青空を駆けている。


余談

高速馬場を巡る論争

彼の死の原因は、高速馬場にあるとの意見もある。

前日のメインレースでもバンブーユージンが競走中止、予後不良となっていた。

さらに上記の宝塚記念の優勝馬であるダンツシアトルは屈腱炎を再発させ、同レースがラストランになり、最下位でゴールしたナリタタイシンも屈腱炎が再発させ引退に追い込まれた上に3着のエアダブリンと14着のネーハイシーザーも屈腱炎を発症し長期休養を余儀なくされるといった具合に故障馬が多く出ている。

レコードタイムも頻発しており、スピードが出る固い馬場となっていたのが原因という事である。

しかし、実際は彼の故障との因果関係は不明であり、いささか短絡的な意見という見方も多い。

杉本アナへのバッシング

実は上記の宝塚記念、杉本清アナウンサーが「私の夢」と言ったダンツシアトルが勝利している。しかも勝ちタイム2:10.2は当時の2200mの日本レコードというおまけ付きである。

杉本アナは毎年宝塚記念で「私の夢」となる馬を話しているが、「私の夢」となった馬はさっぱり勝てないのである。

なので、ダンツシアトルはそのジンクスを見事にはね返した凄い馬・・・の筈なのだが、ライスシャワーの死によってその勝利はイマイチ影が薄くなっている。それに加えて上記の通りこのレースがダンツシアトルにとってラストランになってしまっており、まさに踏んだり蹴ったりである。

また、杉本アナがライスシャワーの転倒にすぐさま気付けず、その様子に驚き慌てる観客たちの悲鳴と怒号に対して「大歓声が上がった」と言ってしまったり最後の直線で「私の夢、ダンツシアトル!」と実況したりしたため、「ライスが落馬したのに『大歓声』とは何だ」とか「ライスが死んでるのに『夢』かよ」と一部から非難を受け、杉本アナは前者に関して苦情文を送ってきた視聴者に対して生涯初めての実況に関する謝罪文を出す事態になってしまったのである(ただし、ライスシャワーの勝ったGⅠ、菊花賞・天皇賞2回ともすべてを杉本アナが実況しており、とくに2回目の天皇賞・春では前述の通りステージチャンプとの接戦だったが、杉本は僅差でライスシャワーが凌いでいたのがわかり「やった、やった、ライスシャワーです!」と実況している)。

ライスシャワーブームへの反感

95年度の春の天皇賞における復活から名ステイヤーとして見直されていた中での最期だったこともあり、その死を機にライスシャワーの人気や名声が頂点へと達していった。彼の死からしばらくは、多くのテレビ局で彼の追悼特集や特番が放映され、オーナー夫妻や担当調教師、ファン有志の手で、京都競馬場以外にも生前のライスシャワーとゆかりの深かった場所に慰霊碑が建立されることとなった。

しかし、彼の死を殊更に騒ぎ立てたり、美化して英雄視したりするこうした風潮に関しては競馬関係者からの批判も多く、「ライスシャワーよりももっと評価すべき馬がいるはずなのに」、「レース中での死亡は決して珍しいことではないのにセンチメンタリズムに流されすぎている」などといった意見が多く見られたほかにも、ある競馬ライターは、かつてメディア上で「ヒール」・「刺客」と評されていたことを引き合いに「その最期で以てルボンやマックイーン以上の英雄としてライスを祭り上げる有様は一種の宗教のようなもの」と辛辣に評価しており、また別の競馬ライターに至っては「悲劇に酔うためにライスシャワーを利用している」とまで言い放っている。

もちろんライスシャワーは名馬と呼ばれるに相応しい馬ではあるが、それはあくまでもステイヤーとして類い希な才能と功績を持っていたことが世間から認められたからであり、決して悲劇的な最期を遂げたから、ではない、と言うことは心しておくべきであろう。


競走成績

R=レコードタイム

3歳時

3歳新馬 1着

新潟3歳ステークス(GⅢ) 11着

芙蓉ステークス 1着

4歳時

スプリングステークス(GⅡ) 4着

皐月賞(GⅠ) 8着

NHK杯(GⅡ) 8着

東京優駿 2着

セントライト記念(GⅡ) 2着

京都新聞杯(GⅡ) 2着

菊花賞(GⅠ) 1着R

有馬記念(GⅠ) 8着

5歳時

目黒記念(GⅡ) 2着

日経賞(GⅡ) 1着

天皇賞(春)(GⅠ) 1着R

オールカマー(GⅢ) 3着

天皇賞(秋)(GⅠ) 6着

ジャパンカップ(GⅠ) 14着

有馬記念(GⅠ) 8着

6歳時

京都記念(GⅡ) 5着

日経賞(GⅡ) 2着

有馬記念(GⅠ) 3着

7歳時

京都記念(GⅡ) 6着

日経賞(GⅡ) 6着

天皇賞(春)(GⅠ) 1着

宝塚記念(GⅠ) 競走中止※予後不良

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競馬 競走馬

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