長崎市
ながさきし
概要
長崎県南部にある都市(中核市)で、県庁所在地である。人口約41万人。
元々は長く伸びた岬しかない地であり(これが長崎の名称の由来)、現在でも数少ない平地部分は埋め立てられたものである。市街中心地で高低差があるのは元々岬だった部分と海だった平地が組み合わさっている為である。
元亀2年(1571年)にポルトガルの要請によって海外貿易の門戸として開港。
江戸時代を通じて幕府直轄地であり、清・オランダとの貿易港として栄えた。
近代以降も開港場のひとつとして、中国・西洋文化の窓口となった。
わが開港を導きし
阿蘭陀船のつどひたる
みなとはこゝぞ長崎ぞ
長くわするな國民よ
――鉄道唱歌(山陽・九州篇)六六番より
現在では観光都市となり、歴史遺産や優れた景観を持つ都市として人気が高い。一方で市の人口減少が深刻であり、(合併で多少変遷しているが)現在の長崎市の範囲は1980年代には人口50万人が住んでいたが、40年間で2割以上も減少している。
長崎大水害(昭和57年長崎大水害・7.23長崎大水害)
1982年(昭和57年)7月23日から24日にかけて県南部に降り続けた記録的集中豪雨によって発生した。
この災害は洪水よりも長崎市の特徴である斜面の土砂災害による犠牲者が上回っており、断水・停電・道路寸断・冠水による壊滅的被害による長崎市の都市機能が麻痺する程の甚大な災害となってしまった。
当時は連日豪雨による警報が発令されていたものの、連日の警報に慣れてしまった事による市民の危機認識の麻痺が避難の遅れに繋がった事も犠牲者多発の原因になってしまったという。
立て続けに起きた土砂災害もあって行政の混乱で大村市の陸上自衛隊への救助要請が中々来ず、報道での惨状を既に見ていた大村駐屯地側が長崎市から自衛隊への救助要請が来ない事に疑問を持ち、自衛隊上層部からの派遣命令が出る前に先行として幹部隊員数名を長崎市に派遣しつつ、後方からは表向きは演習の非公式ながら実質的な災害救助で車両を出動して長崎市を目指していたという。
先行派遣していた数名の幹部隊員のうち一名がなんとか長崎県庁に辿り着いた時にはようやく行政から要請が出ていたのだが、隊員の無線によって事態の深刻さがより判明し後方で演習名目で出勤していた隊員達は災害救助に切り替えた。
この甚大な災害によって、後に対策工事が進められた上に警報・注意報でより土砂災害の恐れを呼びかけるようになった。
この大水害で一度、長崎市の名所「眼鏡橋」は崩壊し構成している石ブロックが下流に流されてしまっていた。後に流された全ての石ブロックは回収し復元された。
関連人物
福山雅治 : 出身者であり、市内で最も急な坂道とされる「きゃあまぐる坂」の命名者でもある。同坂では定期的に駆け上がる速さを競う競争が行われる。