地上のエルサレムの住人たるローマ人
東ローマ帝国は主力軍人にヴァイキングを登用していた。
ローマ帝国を構成するローマ人(当時はギリシャ人他、アラビア人・アフリカ人・モンゴル人・ローマ人でないギリシャ人・ヴェネチア人・ゲルマン人を雇い軍団としていた)
ヴァイキングは東欧の人々(ロシアも含む)国家の祖先である
東ローマ帝国とロシアはかつて『上司=ローマ 部下=ロシア人』の関係であった。
※振り分け
『キリスト千年帝国』
東ローマ帝国英語:Imperium Romanum ギリシア語:Βασιλεία τῶν Ῥωμαίων
Imperium Romanum
- ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。
- 西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現トルコ領イスタンブル)であった。
- ビザンティン帝国、ビザンツ帝国とも呼ばれるが、この2つはあくまでも歴史用語であり、後世の人間による呼称である。当時の政府や住民、及び隣接するイスラム教徒は、この国を単に「ローマ帝国」あるいは「ローマ人の国」と呼んでいた。その点を重視しつつ、かつ古代のローマ帝国との混同を避けるため「中世ローマ帝国」という呼称も提唱されている。
- 同時代の西欧からはギリシア帝国、ギリシャ帝国とも呼ばれていた。
歴史 遷都初期時代
- 初期の時代は、内部では古代ローマ帝国末期の政治体制や法律を継承し、キリスト教(正教会)を国教として定めていた。また、対外的には東方地域に勢力を維持するのみならず、一時は旧西ローマ帝国地域にも宗主権を有していた。
- 7世紀以降は相次いだ戦乱や疫病などにより地中海沿岸部の人口が激減、長大な国境線を維持できず、サーサーン朝ペルシアやイスラム帝国により国土を侵食された。8世紀末にはローマ教皇との対立などから西方地域での政治的影響力も低下した。
- 領土の縮小と文化的影響力の低下によって、東ローマ帝国の体質はいわゆる「古代ローマ帝国」のものから変容した。
- 「ローマ帝国」と称しつつも、住民の多くがギリシア系となり、7世紀には公用語もラテン語からギリシア語に変わった。
- これらの特徴から、7世紀以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と評す者もいる。
- 「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」も、この時代以降に対して用いられる場合が多い。
- 9世紀には徐々に国力を回復させ、皇帝に権力を集中する政治体制を築いた。
- 11世紀前半には、東ローマ帝国はバルカン半島やアナトリア半島東部を奪還し、東地中海の大帝国として最盛期を迎えたが、それも一時的なもので、その後は徐々に衰退していった。11世紀後半以降には国内の権力争いが激化し、さらに第4回十字軍の侵攻と重なったことから一時首都コンスタンティノポリスを失い、各地に亡命政権が建てられた。
- 亡命政権のひとつニカイア帝国によってコンスタンティノポリスを奪還したものの、内憂外患に悩まされ続けた。文化的には高い水準を保っていたが、領土は次々と縮小し、帝国の権威は完全に失われた。
- そして1453年、西方に支援を求めるものの大きな援助はなく、オスマン帝国の侵攻により首都コンスタンティノポリスは陥落し、東ローマ帝国は滅亡した。
- 日本ではあまり知られていないが、古代ギリシア文化の伝統を引き継いで1000年余りにわたって培われた東ローマ帝国の文化は、正教圏各国のみならず西欧のルネサンスに多大な影響を与え、「ビザンティン文化」として高く評価されている。
- 近年はギリシャだけでなく、イスラム圏(オスマン帝国)であったトルコでもその文化が見直されており、建築物や美術品の修復作業が盛んに行われている。
- 東ローマ帝国は「文明の十字路」と呼ばれる諸国興亡の激しい地域にあったにもかかわらず、4世紀から15世紀までの約1000年間という長期にわたってその命脈を保った。
その歴史はおおむね以下の3つの時代に大別される。
- 下記の区分のほかには、マケドニア王朝断絶(1057年)後を後期とする説がある。
- 本項では、統一されたローマ帝国の最後の皇帝となったテオドシウス1世が、死に際して長男アルカディウスに帝国の東半分を継がせた時をもって「東ローマ帝国」の始まりとしている。
- コンスタンティヌス1世がローマからコンスタンティノポリスへ遷都した330年をもってビザンツ(東ローマ)帝国史の始まりとする場合もある。
前期(395年 - 610年頃)
再興と挫折
- 西ローマ帝国はゲルマン人の侵入などで急速に弱体化し、476年に滅亡したとされる。
- 同年にイタリアで西ローマ皇帝を退位させて権力を得たオドアケルが自らは帝位を継承せず、東ローマ皇帝ゼノンに対して帝位を返上しイタリア王としてイタリア半島を支配下にしたからである。
- 一方、東ローマはゲルマン人の侵入を退けて古代後期ローマ帝国の体制を保ち、コンスタンティノポリスのローマ帝国が唯一のローマ帝国の正系となった。
- イタリア王のオドアケルが東ローマ皇帝の代官として振る舞うなど、西ヨーロッパのゲルマン人の諸国やローマ教皇に宗主権を認めさせた。
西ローマと違って東ローマがゲルマン人を退けることが出来た理由は
- アナトリア・シリア・エジプトのような、ゲルマン人の手の届かない地域に豊かな穀倉地帯を保持していた
- 対する西ローマ帝国は穀倉地帯であるシチリアを、ゲルマン人に奪われた。
- アナトリアのイサウリア人のようにゲルマン人に対抗しうる勇猛な民族がいた
- 西ゴート人や東ゴート人へ貢納金を払って西方へ移動させた
- これによって西ローマ側の疲弊は進んだ。
- 首都コンスタンティノポリスに難攻不落の大城壁を築いていた、ことなどが挙げられる。
ヨーロッパの『再ローマ化』
- 名君アナスタシウス1世の下で力を蓄えた東ローマ帝国は、6世紀のユスティニアヌス1世(大帝)の時代には、名将ベリサリウスの活躍により旧西ローマ帝国領のイタリア半島・北アフリカ・イベリア半島の一部を征服し、地中海沿岸の大半を再統一することに成功した。
- かつての首都・ローマを奪還した事は、東ローマ帝国がいわゆる「ローマ帝国」を自称する根拠となった。ローマ法大全
- トリボニアヌスに命じてローマ法の集成である『ローマ法大全』の編纂やハギア・ソフィア大聖堂の再建など、後世に残る文化事業も成した。
- しかし、相次ぐ遠征や建設事業で財政は破綻し、それを補うための増税で経済も疲弊した。
- イタリア半島においては戦乱と重税によって、いわゆるローマ市民と元老院が消滅し、古代ローマはこの時滅亡したのだと主張する学者もいる。
- ユスティニアヌス1世の没後はサーサーン朝ペルシアとの抗争やアヴァール・スラヴ人・ランゴバルド人などの侵入に悩まされた。7世紀になると、サーサーン朝にエジプトやシリアといった穀倉地帯を奪われるにまで至った。
中期(610年頃 - 1204年)
危機と変質 (7世紀 - 8世紀)
領土奪還
- 混乱の中即位した皇帝ヘラクレイオス(在位 : 610年 - 641年)は、シリア・エジプトへ侵攻したサーサーン朝ペルシアとの戦いに勝利して領土を奪回することに成功した。
- しかし間もなくイスラム帝国の攻撃を受けて、シリア・エジプトなどのオリエント地域や北アフリカを再び失ってしまった。
キュリア沖海戦に敗北
- 655年にアナトリア南岸のリュキア沖の海戦で敗れた後は東地中海の制海権も失い、674年から678年にはイスラム海軍に連年コンスタンティノポリスを包囲されるなど、東ローマ帝国は存亡の淵に立たされた。
帝国の縮小
- この包囲は難攻不落の大城壁と秘密兵器「ギリシアの火」を用いて撃退することに成功したが、北方の第一次ブルガリア帝国などからも攻撃を受けたために、領土はアナトリア半島とバルカン半島の沿岸部、南イタリアの一部(マグナ・グラエキア)に縮小した。
Βασιλεία τῶν Ῥωμαίων
- 公用語がラテン語からギリシア語へと変わったのはこの時代である。
- 717年に即位したイサウリア王朝の皇帝レオーン3世は、718年に首都コンスタンティノポリスを包囲したイスラム帝国軍を撃退。
- 以後イスラム側の大規模な侵入はなくなり、帝国の滅亡は回避された。
聖像破壊運動
- 宗教的には726年にレオーン3世が始めた聖像破壊運動などで東ローマ皇帝はローマ教皇と対立し、カトリック教会との乖離を深めた。
- 聖像破壊運動は東西教会ともに787年、第2ニカイア公会議決議により聖像擁護を認めることで決着したが、両教会の教義上の差異はフィリオクェ問題をきっかけとして顕在化し、「フォティオスの分離」などによって亀裂を深め、東西両教会は事実上分裂した。
女帝エイレーネ
- 女帝エイレーネー(イリニ)治下の800年、ローマ教皇がフランク王カール1世に「ローマ皇帝」の帝冠を授け(カール大帝)、政治的にも東西ヨーロッパは対立。
- 古代ローマ以来の地中海世界の統一は完全に失われ、地中海は西欧・東ローマ・イスラムに三分された。
- こうして東ローマ帝国は「ローマ帝国」を称しながらも、バルカン半島沿岸部とアナトリアを支配し、ギリシア人・正教会・ギリシア文化を中心とする国家となった。
- このことから、これ以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と呼ぶこともある。
最盛期(9世紀 - 11世紀前半)
キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国 マケドニア朝
- 9世紀になると国力を回復させ、バシレイオス1世が開いたマケドニア王朝(867年 - 1057年)の時代には政治・経済・軍事・文化の面で発展を遂げるようになった。
完全なる『絶対皇帝体制』
- 政治面では中央集権・皇帝専制による政治体制が確立し、それによって安定した帝国は、かつて帝国領であった地域の回復を進め、東欧地域へのキリスト教の布教も積極的に行った。
マケドニア朝ルネサンス
- また文化の面でも、文人皇帝コンスタンティノス7世の下で古代ギリシア文化の復興が進められた。
- これを「マケドニア朝ルネサンス」と呼ぶこともある。
復活
- 10世紀末から11世紀初頭の3人の皇帝ニケフォロス2世フォカス、ヨハネス1世ツィミスケス、バシレイオス2世ブルガロクトノスの下では、北シリア・南イタリア・バルカン半島全土を征服して、東ローマ帝国は東地中海の大帝国として復活。
- 東西交易ルートの要衝にあったコンスタンティノープルは人口30万の国際的大都市として繁栄をとげた。
衰退と中興(11世紀後半 - 12世紀)
- 1025年にバシレイオス2世が没すると、その後は老齢・病弱・無能な皇帝が続き、大貴族の反乱や首都市民の反乱が頻発して国内は混乱した。
マラズギルトの戦いに敗北
- 1071年にはマラズギルト(マンジケルト)の戦いでトルコ人のセルジューク朝に敗れたために東からトルコ人が侵入。同じ頃、西からノルマン人の攻撃も受けたために領土は急速に縮小した。
- 小アジアのほぼ全域をトルコ人に奪われ、ノルマン人のルッジェーロ2世には南イタリアを奪われてしまった。
軍事力強化
- 大貴族コムネノス家出身の皇帝アレクシオス1世コムネノス(在位:1081年 - 1118年)は婚姻政策で地方の大貴族を皇族一門へ取りこみ、帝国を大貴族の連合政権として再編・強化することに成功した。
- 当時地中海貿易に進出してきていたヴェネツィアと貿易特権と引き換えに海軍力の提供を受ける一方、ローマ教皇へ援軍を要請しトルコ人からの領土奪回を図った。
復活
- アレクシオス1世と、その息子で名君とされるヨハネス2世コムネノス(在位:1118年 - 1143年)はこれらの軍事力を利用して領土の回復に成功し、小アジアの西半分および東半分の沿岸地域およびバルカン半島を奪回。東ローマ帝国は再び東地中海の強国の地位を取り戻した。
- ヨハネス2世の後を継いだ息子マヌエル1世コムネノス(在位:1143年 - 1180年)は有能で勇敢な軍人皇帝であり、ローマ帝国の復興を目指して神聖ローマ帝国との外交駆け引き、イタリア遠征やシリア遠征、建築事業などに明け暮れた。
- しかし度重なる遠征や建築事業で国力は疲弊した。
- 特にイタリア遠征、エジプト遠征は完全な失敗に終わり、ヴァネツィアや神聖ローマ帝国を敵に回したことで西欧諸国との関係も悪化した。
惨敗
- 1176年には、アナトリア中部のミュリオケファロンの戦いでトルコ人のルーム・セルジューク朝に惨敗した。
- 犠牲者のほとんどはアンティオキア公国の軍勢であり、実際はそれほど大きな負けではなかったらしいが、この敗戦で東ローマ帝国の国際的地位は地に落ちた。
分裂とラテン帝国(12世紀末 - 13世紀初頭)
- 1180年にマヌエル1世が没すると、地方における大貴族の自立化傾向が再び強まった。
- アンドロニコス1世コムネノス(在位:1183年 - 1185年)は強権的な統治でこれを押さえようとしたが失敗し
無能な皇帝
- アンドロニコス1世に替わって帝位についたイサキオス2世アンゲロス(在位:1185年 - 1195年)が無能だったこともあって皇帝権力は弱体化した。
- またブルガリア・セルビアといったスラヴ諸民族も帝国に反旗を翻して独立し、帝国は急速に衰微していった。
ラテン帝国建国
- 十字軍兵士と首都市民の対立やヴェネツィアと帝国との軋轢も増し、1204年4月13日、第4回十字軍はヴェネツィアの助言の元にコンスタンティノポリスを陥落させてラテン帝国を建国。
- 東ローマ側は旧帝国領の各地に亡命政権建てて抵抗することとなった。
後期(1204年 - 1453年)
帝国の再興(1204年 - 1261年)
二カイア帝国
- ニカイア帝国は初代のテオドロス1世ラスカリス、2代目のヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスの賢明な統治によって国力をつけ、ヨーロッパ側へも領土を拡大した。
パレオロゴス朝
- 3代目のニカイア皇帝テオドロス2世ラスカリスの死後、摂政、ついで共同皇帝として実権を握ったミカエル8世パレオロゴス(在位:1261年 - 1282年)は、1261年、コンスタンティノポリスを奪回。東ローマ帝国を復興させて自ら皇帝に即位し、パレオロゴス王朝(1261年 - 1453年)を開いた。
落日の帝国(1261年 - 1453年)
- しかし、かつての大帝国時代のような勢いが甦ることは無かった。
- ミカエル8世の息子アンドロニコス2世パレオロゴス(在位:1282年 - 1328年)の時代以降、祖父と孫、岳父と娘婿、父と子など皇族同士の帝位争いが頻発し、経済もヴェネツィア・ジェノヴァといったイタリア諸都市に握られてしまい、まったく振るわなかった。
西も東も敵だらけ
そこへ西からは十字軍の残党やノルマン人・セルビア王国に、東からはトルコ人のオスマン帝国に攻撃されて領土は首都近郊とギリシアのごく一部のみに縮小。
ローマ皇帝がオスマン皇帝に従属
- 14世紀後半の皇帝ヨハネス5世パレオロゴス(在位:1341年 - 1391年)はオスマン帝国のスルタンに臣従し、帝国はオスマン帝国の属国となってしまった。
ヨーロッパへ助けを求める
- 14世紀末の皇帝マヌエル2世パレオロゴス(在位:1391年 - 1425年)は、窮状を打開しようとフランスやイングランドまで救援を要請に出向き、マヌエル2世の二人の息子ヨハネス8世パレオロゴス(在位:1425年 - 1448年)とコンスタンティノス11世ドラガセス(在位:1449年 - 1453年)は東西キリスト教会の再統合を条件に西欧への援軍要請を重ねたが、いずれも失敗に終わった。
パレオロゴス朝ルネサンス
- この時期の帝国の唯一の栄光は文化である。古代ギリシア文化の研究がさらに推し進められ、後に「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれた。
- このパレオロゴス朝ルネサンスは、帝国滅亡後にイタリアへ亡命した知識人たちによって西欧へ伝えられ、ルネサンスに多大な影響を与えた。
滅亡(1453年)
- 1453年4月、オスマン帝国第7代スルタンのメフメト2世率いる10万の大軍勢がコンスタンティノポリスを包囲した。
- 東ローマ側は守備兵7千という圧倒的に不利な状況の中、2ヶ月近くにわたって抵抗を続けたが、5月29日未明にオスマン軍の総攻撃によってコンスタンティノポリスは陥落。
コンスタンティノポリス陥落
- 皇帝コンスタンティノス11世は部下とオスマン軍に突撃して行方不明となり、東ローマ帝国は完全に滅亡する。これによって、古代以来続いてきたローマ帝国の系統は途絶えることになる。
陥落の一部始終
- コンスタンティノープルの市内ではなだれ込んできた16万のオスマン軍が略奪の限りをした。その時に殺されたのは四千あまりだったが、実際は攻防戦の時に市民の大部分を兵士に投入していたのでそちらの犠牲者の方が断然多いだろう。
- 陥落後のコンスタンティノープルの歩道が【大雨の様な血】で染まった。
- 無抵抗で惨殺さえたのは奴隷として役に立たない、「老人」や「乳児」であった。
- 聖職者のほとんどは抵抗せずにとらえられた。
- 逃げきれ切れなかった住民のほとんどが捕えられた物は身分の男女の区別もなく一応に二列に並ばせられて、互いにありきたりの網か女たちの被っていた薄絹(うすきぬ)でつながれた。
- 悲鳴が起こるのはオスマン兵が「美少年」か「売り物になりそうな女」を列から強奪する時だった。それ以外は捕囚民たちはまるでおとなしい羊のように引いて行かれるに任せていた。
- 皇宮はもちろん民家も略奪・破壊はまぬがれなかった。多くのイコンは無に帰され、十字架も飾りの部分の宝石がえぐり取られた。
ビザンツついでに征服された周辺帝国
- 1460年にはペロポネソス半島の自治領土モレアス専制公領が、1461年には黒海沿岸のトレビゾンド帝国がそれぞれオスマン帝国に滅ぼされ、地方政権からの再興という道も断たれることとなった。
滅亡後、「ローマ皇帝」を名乗る者たち
- なお、東欧世界における権威を主張する意味合いから、メフメト2世やスレイマン1世などの一部のスルタンは「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝)を名乗り
- またイヴァン4世などロシア公王はローマ帝国の継承性を主張している。
貴様ら頑張りすぎだ・・・。