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ムハンマドの編集履歴

2023-10-21 21:51:17 バージョン

ムハンマド

むはんまど

イスラム教の開祖、マホメット。ないしはそれに因むムスリム男性の名前。

イスラムの開祖としてのムハンマド

フルネームはムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ・イブン=アブドゥルムッタリブ。570年頃にアラビア半島のメッカに生を受けた。25歳頃にハディージャ・ビント・フワイリドと結婚して4人の子を儲けるも、悩みを抱いて瞑想にふけるようになる。610年8月10日、メッカ郊外の山でジブリール(ガブリエル)の啓示を受けて預言者となる。

ムハンマドはアッラーを布教しようとしたが「そんなもん教えるな!(要約)」とメッカを追い出され、622年にメディナに引っ越すことになった。その後体裁を整えるためにこの出来事を「ヒジュラ(聖遷)」とかっこいい名前をつけた。


天馬ブラークに乗って天界に行った際にはアダムノアモーセキリストなどといった過去の預言者たちにも会ったといわれる(預言者の数は25人、または27人とも)。


彼が預言者として受けた啓示であるクルアーンと、ムハンマド自身の言行の記録であるハディース集はイスラム教の聖典となっており、今日の信徒たちの信仰生活を送る際の規範として機能している。

ハディースにおいてはその人柄を示すエピソードが多く、中にはニンニク料理を食べてモスクにやってきた信者にイラっと来て「そんなもん入れた口で来るんじゃねえ!」と激怒したのがニンニクの摂食が戒律として禁じられたと周囲に誤解されて騒ぎになると、あわてて「私が嫌いな臭いの植物なだけだから!」と宥めるなど、飾らない素直な性格が垣間見えるものとなっている。


預言者となったムハンマドはアラーの教えを説いて回るが迫害に遭い、転戦の日々を余儀なくされる。少数民族の多神教ばかりでなく、ササン朝やビザンツ帝国と言ったキリスト教ゾロアスター教の大国ともにらみ合うなど多難を乗り越え、630年にメッカを奪還してイスラムの聖地たらしめている。2年後の632年、ムハンマドは戦いと布教にかけた人生を終えた。


ムハンマドとネコ

ムハンマドはネコ好きであったと伝承され、ネコに関する逸話もいくつかある。

「ムハンマドが礼拝している最中、愛猫・ムエザが着物の袖の上で眠ってしまった。ムエザを起こすのが忍びなかったムハンマドは、袖を切り落として外出した」というものがよく知られている。また、ムハンマドを蛇から助けたネコを感謝の礼として撫でた事で「額に縞(とくにM字状)があるネコはムハンマドのネコ」という伝承もある。

その為かイスラム世界では特に綺麗好きであるネコを大切にする傾向があり、猫を虐待した女性が神に罰せられ、地獄に落ちた逸話がハディース(ムスリムの道徳やマナー、生き方の指南書)の中で語られている。

対してサルーキ以外のイヌは穢れた生き物とされ、犬がモスクに入ったらモスク全体を清めなければならないといわれる。

(だが、イスラーム自体は動物を大切にする宗教であり、ムハンマドが喉が渇いた犬に水を恵むという逸話もある。 参照:動物に対しての慈しみ


ムハンマドの表象(絵画表現)

[pixivimage:]

イスラム世界にはムハンマドを描くことをタブーとする解釈も存在し、あるムハンマドの伝記映画では彼の目から映る光景を映像化しており、彼自身の姿は画面には映らない。

ムハンマド風刺漫画問題では、ムハンマドへの侮辱的要素だけでなく、彼の姿を描く事の是非も問われた。これはイスラム学者のあいだでも意見の一致を見ない。


ただし、歴史上ではムハンマドを描いた絵は存在していた。その多くはメイン画像のように布を被ったものだが、中には顔を描いたものもある。


pixivでもイスラム関連のネタを描く際、イスラム教の人々に対してリスペクトを持ち、慎重に描くことが求められる。


ムハンマドの戦い

ムハンマドは生涯で大きな戦いが3つあった。

バドルの戦い

⋯クライシュ家メッカ軍との戦い。1000対300という寡戦だったが、アラブ地域伝統の戦闘作法・一騎討ちによりムハンマドのイスラム軍は次々とメッカ軍の名将を倒していく。

ヴブドの戦い

⋯バドルの戦いの翌年、メッカ軍はリベンジとしてユダヤ人を召集。敵軍3000に対しムハンマドは味方のユダヤ人を帰還させムスリム兵700の馬2頭だった。また、この戦いでは一騎打ちをやめる。当初戦いはムハンマドの思惑通りに進んでいたが、味方の弓隊が勝手に追撃して敵の騎馬隊の侵入を許してしまい敗北。ムハンマドは叔父のハムザを亡くし、負傷。戦後ムハンマドは帰還させたユダヤ人と揉めている。多くの兵士を失ったため一夫多妻制を導入した。

塹壕の戦い/ハンダクの戦い

⋯イスラム初の攻城戦。塹壕の薄い場所に侵入した将をアリーが討伐。ムハンマドの勝利に終わり、メッカ側はムハンマドに降る事となった。戦後ムハンマドに付いたユダヤ人は粛清され、イスラム勢力が拡大した。


家族

⋯妻が3人、子供が7人いたとされる。


子女

⋯成人したのは4人だけであった。

  • 長女:ザイナブ
  • 次女:ルカイヤ
  • 三女:ウンム・クルスーム
  • 四女:ファティマ

養子

  • ザイド・イブン・アルハーリサ
  • アリー

親戚

  • 叔父:アブー・ターリブ⋯ハーシム家当主。ムハンマドの親代わりになる。アリーは養子。大家族のゆえに晩年は家産が減り凋落した。異教徒のまま亡くなったと言われるがシーア派ではムスリム扱い。
  • 〃:アブー・ラハブ⋯アブーターリブの弟。ムハンマドがイスラム勢力を立ち上げたため、他の部族からハーシム家への経済制裁が続いていたのでムハンマドと敵対する。クルアーンには「アブー・ラハブの両手が断ち切られるように。彼に死を。彼の財産と彼が蓄えたものは、彼の状態の役には立たなかった。まもなく、燃え盛る業火の中に入るだろう。また彼の妻はその薪を燃やし、首にはナツメヤシの繊維でできた縄を巻いている/アル・マサドの章」とだけ言及されている。

参考・ムハンマドの家族


人名としてのムハンマド

イスラムの預言者に因む名前として好まれ、メフメト・ムハメット・モハマドなど多く存在する。

これらを全て含めると、21世紀現在、世界の子供の名付けランキングで他の追随を許さない堂々の一位を独占し続けている名前であり、存命の人物、故人いずれであっても有史以来最多の人数を記録し続けている名前である


実在の人物








架空の人物


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