人物
1970年(昭和45年)11月25日に、楯の会メンバーと共に陸上自衛隊東部方面総監部に乱入し、決起を促す演説をしたあと、割腹自殺をした。(三島事件)
病弱な 幼少・少年期・青年期
イメージがかなり違うかもしれないが幼少期の由紀夫は稚児のような格好で過ごしていた。三島の家は華族階級の習慣が残っていたので幼少期で女装していたのだ。(古い権力階級などでは子供時代に女装する習慣があることは世界的に見てもは珍しいことではなかった)
しかも病弱であり、少年期から青年期に至ってもかなり細い体格であった。
このためか三島自身は『強い漢』にあこがれていたと後に述懐しており、中年~晩年にいたるとボディービルを始め、強靭な肉体を手に入れたという。(ガチムキ)
どうやらその肉体には相当の自信があったらしく、取材等でカメラマンが何も言わずに三島にカメラを向けるとたびたび勝手に服を脱いで裸になろうとしたというエピソードがある他、自身の全裸写真集『薔薇刑』まで出版してしまっている。
楯の会
これは戦後高度経済成長する日本がかつての日本的帝国文化精神の清さが薄れ、拝金亡者、年功序列、エログロナンセンスの繁栄丸出し(に見える)、封建的民主主義などのことが耐えられなくなったからだともいわれる。
交友関係
森鴎外を深く尊敬していた。太宰治の作品を嫌っており、大宰本人に対して面と向かって「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」と言い切ったというエピソードがある。生前は美輪明宏と交流が深く、江戸川乱歩作の「黒蜥蜴」を戯曲化して美輪に主演を依頼したのを皮切りにして、自決事件の直前まで公私共に長い付き合いを重ねていた。
同性愛者であったが、日本画家の重鎮・杉山寧の娘・瑶子と結婚して子供ももうけているため、バイセクシャルであったとも言われている。(一説にはこの結婚自体が両親に対して自身が同性愛者であることを隠蔽するための偽装であったとも)
“軍人”三島由紀夫
尚、先述の楯の会の活動を通じ、陸上自衛隊対心理情報課程(不正規戦・情報戦を行う人員を育成する課程)に所属する山本舜勝一等陸佐(退役時陸陸将補)を顧問として、同会会員に市街地における不正規戦訓練を実施し、また、クーデターを視野に入れた活動をも実行していた事を山本一佐は著作「自衛隊 影の部隊」で主張している。山本一佐は再三クーデター実行の誘いをしてくる三島に、“今はその時ではない”として退けたが、その際に部下であった若手の陸上自衛官から三島の意に沿わない事への不満が電話で伝えられ、“兵員の心理掌握に関しては自分を超えていたかもしれない”と作家としてではなく“軍人”としての顔の三島を回顧している。
尚、対心理情報課程は現在は廃止されている。