概要
1989年から1996年にかけて、日本テレビ系列局ほかにて18+1回放送された、大型バラエティ番組。
ビートたけしが、「売れない芸人をテレビに出してやろう」というコンセプトの元企画したもの。この番組に出させてもらった事がきっかけで出世したタレントは結構いたりする(ダチョウ倶楽部や出川哲朗はその代表格か)。
元々はアメリカ横断ウルトラクイズのパロディ企画的存在であり、都内を呑気にロケしながらクイズを行う、と言った内容だった。
だが、2回目以降はロケは大がかり且つ過激な内容となっていき、たとえ安全性を確かめたはずでも、怪我人が出てしまう事態になってしまった事も度々あったという。
また、あまりにも過激で危険且つバカバカしい内容故に世間からの風あたりも強く、結局1996年4月放送分の第19回をもって終了した。
ただし、2007年1月1日に、1回限りの復活版が放送されている。また、1994年12月30日放送分は諸事情により全編スタジオ収録の総集編となったが、これも正式な開催という形でカウントされている(ちなみに第16回)。
基本的には日本テレビ系列全20(第1回時点)~27(第19回および復活版時点)+3~1(これらはテレビ朝日系列とのクロスネット局の数)局で放送されたが、フジテレビ系列局のごく一部で放送してもらった事もある。
ただし、沖縄県とテレビ金沢開局前の石川県では放送実績がない。沖縄県に関しては4度舞台になったにもかかわらずである。
番組本編とは別にスタジオ収録のパートもあり、ここでは酷い目に遭ったタレントの他にも女優が審査員の名目で出演していたのだが、その役割はと言えば、あまりにバカバカしいリアクションなどを見て冷ややかなコメントを出す、と言うものであった。
ただ事実上最後の放送となった第19回ではスタジオ収録パートは廃止されたものの、復活版では再び設定されている。
余談
岸谷五朗と寺脇康文も、コントユニット・SET隊名義で出演した事が1度だけあったものの、出番がほとんどなかったため、スタジオ収録パートで岸谷が「参加したんですかね??」と首をかしげる一幕があった。
本来は売れないタレントがテレビに出るための番組であったため、たけしはロケでは(司会者という名の)オブザーバーでしかなかった。たけし曰く「オレの看板番組で俺が参加してしまったら、他の出演者の方々が目立たなくなっちまうだろ」。
だがあまりにもの傍観者振りに視聴者からの非難は止まず、スタッフの間でも「たけしさんも出場する側に回るべき」という声が出てしまう。
結果、1993年1月放送の第11回では、たけしの同門の先輩にあたる松鶴家千代若がたけしに因縁を付け、これが元でたけしは出場者に回るハメになった。そのため司会者不在になった事から、たまたまその場にいた宝田明が司会代行を務めるハメになった。そしてその宝田に配慮する格好でタイトルを急遽「宝田明のお笑いウルトラクイズ」に差し替えられている。
1994年1月放送の第14回において、梅垣義明らが『イヨマンテの夜』を下ネタにアレンジしたパフォーマンスを行ない、会場は大ウケしたものの「アイヌ民族を完全にバカにしている」という視聴者からのクレームが殺到、アイヌ民族の団体である北海道ウタリ協会(現在の北海道アイヌ協会)から(当然ながら)抗議を受けた。
参加人数が多かったからか、出演料はあまり多くは出なかったものの、かなり酷い目に遭った場合は、収録終了後、スタッフから現金で手当(と言う名の詫び料)がもらえた。
さらに、怪我をしてしまった場合は、治療費支給はもちろんの事、出演料にお見舞い金が上乗せされている。