概要
東方Projectに登場するクラウンピースと稀神サグメのカップリング。
両者はともに『東方紺珠伝』に初登場した。
『紺珠伝』作中では両者はそれぞれ対立する立場にあり、サグメら月の都の人々がクラウンピースらが生み出す「穢れ」によって、その活動を観測することさえできなかったため、『紺珠伝』作中での両者の直接の接触は見られていない。
しかし両者は『紺珠伝』での対立において共に最前線(または防衛線)に立って事にあたった
両者であり、それぞれの立場から異変の大規模な実行やその対処の中核にあった両者でもある。
『紺珠伝』
『紺珠伝』において、クラウンピースはサグメが防衛に立つ月の都を攻撃する側にあった。
クラウンピースをはじめとした妖精たちの生命力は月の民にとって忌避するところであり、さらにこの機会では妖精たちは純狐の力によって「 純化 」されていた。
月を包囲しつつ大はしゃぎを繰り返していた妖精たちの様、あるいはその穢れの有様は月の民からの観測さえも許さないほどであった(『東方外來韋編』)。
長い膠着状態にあって、やがて八意永琳の思惑を乗せた地上からの面々が月の都のサグメのもとを訪れる。サグメは地上からの一矢に別の新たな運命を見出すと、腕試しの上で到来したこの可能性に月の都の命運を賭ける。そして問題解決のための真の目標として純狐の方角を指し示し、地上からの面々はその過程でクラウンピースと出会うのである。
『紺珠伝』では先述の通りクラウンピースとサグメ本人たちの出会いはないものの、サグメのストーリーからクラウンピースのストーリーが物語としてもステージ(サグメの4面からクランピースの5面)としても直結している。
これは主人公たちが想像してきた「月の都の侵略」の実像がサグメによって「純狐の攻撃からの回避手段」である(月の都との対立では問題を解決できない)ことが語られ、さらに実際にクランピースを通してその現実に直面するというもので、『紺珠伝』は異なる二人のそれぞれの姿を通して物語のターニングポイントを形成している。二人を通して、物語は一気に加速するのである。
星条旗
『外來韋編』によれば、クラウンピースが服装のモデルとしたものは、静かの海に残されていたアメリカ国旗(星条旗)である。これはアポロ計画による月面着陸に際して外の世界の地上の人間が残していったものである。そのはずであった。
しかし『紺珠伝』またはそれに繋がる『東方深秘録』において、サグメが、至る「 月の都遷都計画 」実現のために流行を期待した都市伝説である「 アポロ計画捏造説 」を幻想郷に広める場合、月の都にはアポロ計画の遺物である旗は存在し得ない。
月面着陸は捏造なのだから、当然旗が存在することもないのである。
しかし現にクラウンピースの衣装は月にあった星条旗をモデルに変化しているとされており、この事象のうねりによって因果のつながりがあやふやな状態にある。
都市伝説には「 過去を変える力 」があり、サグメはこの力を使って月の都を幻想郷へと移して純狐の攻撃から逃れようとした。
それ自体は本気ではなかったとされるものの、その成果の如何によってはクラウンピースの衣装デザインが変化する(あるいは過去から変化するため、星条旗を基にした衣装変化がそもそも起こらない過去が生まれる)可能性もあるなど、サグメの目論見と具体的な計画、クランピースの衣装という二点は、二人にとどまらない大きな流れの中で、しかしながら二人特有の結びつきの要素として関連しあっている様子である。
二次創作では
『紺珠伝』における間接的対峙をはじめそもそも月と地上という嫌いあう文化を持つ両者に所属するとあって、両者の接点については様々な考察が巡らされている。
例えば『紺珠伝』当時、クラウンピースが何らかの理由で都の外に出てしまったサグメに出会ったりするなどの想像では、『紺珠伝』時点ではクラウンピースは妖精たちとの大はしゃぎの中にあった上に「都から出てくるものが居たら遊んでいい」とされていたため、高揚した精神状態でサグメに喜々として全力の勝負を仕掛けるといった想像などがある。
あるいは『紺珠伝』後、地上に顔を出すようになったクラウンピースと、同じく『紺珠伝』EXステージに至る経緯で地上とのパイプを形成したサグメが地上で出会うという想像もあり、地獄と月のいずれとも異なる今日の幻想郷で、対立とはまた異なる縁が生まれるのでは、との想像もある。
何より二人のパーソナリティに大きな違いがあり、とかく妖精然とした感情豊かで遊び好き、悪戯好きなクラウンピースと、クールで寡黙、凛としたサグメの二人がどのように交流するかは、二次創作においても一種の未知の化学反応を探るような様々なあり方の模索が続いている。
一方でクランピースに見る妖精的な純粋さや単純さが二次創作においてサグメに見出されることのある素朴さや天然的素養とうまくまはり合うのでは、との想像もある。
さらに、それぞれ個別の人間関係においていわゆる愛されるいじられ体質としての両者という姿も見出されていることもあり、「クラサグ」にこの共通した他者関係を持つ両者の出会い、という可能性を見る創作もあるなど、二人が交わりあえる可能性についてもまた多様にアプローチされている。