概要
1898年に英国人の武術家であるエドワード・バートン=ライトによって設立された。名前の由来は自身の名字であるバートン(Barton)と日本の武術である柔術(Jiu-Jitsu)を混成した造語である。
その技術は、名前の由来にもあるように日本の古流柔術又は柔道をベースに、ボクシング・サバット・シュヴィンゲン(日本ではスイス相撲と呼ばれる)・ステッキ術を取り入れたもの。
現代に於ける軍や警察のCQCの「はしり」と言えるかもしれない。
経緯
バーティツの名前が初めて知られたのはピアソンズ・マガジン(1899年3月号)に掲載されていた事である。
バートン=ライトはエンジニアとして日本に滞在していた経験があり柔術を短期間学んでいた。そして帰国後にボクシングやサバットを始めとするヨーロッパの格闘技を取り入れ作られた。
当時の人気雑誌ピアソンズ・マガジンに数回掲載されて、多少一般の人々に注目されたが、バートン=ライトは柔術を指導する技量を持っていなかったため、助っ人で日本の柔術家を招いた。この時にやって来たのは谷幸雄と上西貞一である。
しかしバーティツは1903年に道場が閉鎖された。理由は不明だが、バートン=ライトの商売が下手だった事が原因では無いかと言われる。晩年のバートン=ライトは放射線療法を専門とする理学療法士として働いた。1951年にバートン=ライトは90歳でこの世を去った。
しかし21世紀に入るとバーティツは意外な形で復活をする。2002年にバーティツ愛好家による国際協会が結成された。同協会は正当バーティツ(古典的スタイル)とネオ=バーティツ(バーティツの最新状態を保ち、失われた技術を補って現代風に昇華する)を訓練している。
余談
バーティツ教室を閉鎖後、谷幸雄と上西貞一は母国からやって来た柔術家と共に柔術を広める為公演を行った。彼らは芸人である怪力男、レスラー、ボクサーを対戦相手として募り、高額の賞金を懸して無差別試合を行った。谷幸雄は身長150㎝の小柄で体重は60キロ足らずだったのにもかかわらず体軸で大幅に勝るイギリス人の猛者達に勝利をした。相手の力を利用して自らを利する柔術の技で完勝していたのだ。
ノーブルの記述によると、谷は六ヶ月にわたる、興行ツアー中一週間に平均20人を、全体の合計で500人以上の挑戦者を倒したという。谷はその後の晩年はイギリスで過ごした。
一方の上西はとある男を弟子に持った。ウィリアム・ガラッドである。彼はThe Complete jujitsuanという柔術に関する本を書いた。
もう一人は彼の妻であるイーディス・ガラッドで夫が上西から受け継いだ道場で女性や子供に柔術を教えるクラスを作り、またサフラジェットと呼ばれる女性参政権をする人達に警察官から身を守る護身術サフラジュツとして指導をした。
関連タグ
エスクリマ:バーティツと同じく、徒手と武器の両方がある格闘術。