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生涯編集

前半生編集

アントニウス(前82~前30年)は、ローマ共和政末期の内乱の1世紀に、カエサルのもっとも信頼の深い部将として活躍、ガリア遠征やポンペイウスとの戦いで功績を挙げた。前44年にカエサルが暗殺されると、その葬儀を取り仕切った。後継者と遺言されるのは自分であると確信をもったが、実はカエサルが指名した後継者は、カエサルの養子のオクタヴィアヌスだった。


第二回三頭政治編集

もくろみが外れたアントニウスはオクタヴィアヌスと争ったが、元老院の支持がオクタヴィアヌスにあるのを見て妥協し、同じ部将のレピドゥスを仲介にして、翌前43年に第2回三頭政治を成立させた。三人はいずれもカエサルの部下や系列であり、アントニウスはオクタヴィアヌスの姉のオクタヴィアと結婚し、両者は手を結ぶこととなった。第2回三頭政治は、第1回と同じく、元老院を抑えるための有力者間の妥協であった。この三者で勢力圏を分割した際、アントニウスは東方属州を与えられたため、エジプトの支配権を得た。

アントニウスとオクタヴィアヌスは共同してマケドニアに逃れたカエサルの暗殺者ブルートゥスらを追撃し、前42年のフィリッピの戦いで彼らを討った。


キケロの処遇編集

三人の意見でまとまらなかったのがキケロの処遇だった。キケロは弁論家として名高く、共和主義者であったがカエサルには協力していた。故にカエサル死後にアントニウスが権力を継承することに激しく反対し、論陣を張っていた。そこでアントニウスはキケロの追放を強く主張、オクタウィアヌスはキケロを弁護したが、三頭政治成立という政治的妥協を重視し、ついにキケロを追放リストに挙げることに合意した。オクタウィアヌスの変心を知ったキケロは、もはや自分の政治的生命もここまでとあきらめたか、ローマから脱出したが、アントニウスの派遣した捕り手に追いつめられ、自殺した。

  • そのキケロはアントニウスを「頭も身体も剣闘士並」と評している。これはある意味で褒め言葉でありある意味にではディスっている訳であるが、これほどアントニウスをよく表した言葉もないであろう。

クレオパトラとの関係編集

アントニウスは東方遠征を行い、小アジアからシリアに転戦、さらにパルティアと戦った。苦戦が続くなか、プトレマイオス朝エジプトの支援を得ようとしてその女王クレオパトラ7世を小アジアのキリキアに呼び出し、会見した。その会見で彼女の虜となったアントニウスはエジプトに向かい、そのままアレクサンドリアにとどまってしまった。


クレオパトラはカエサルとのあいだにカエサリオンという男子をもうけ、エジプトのプトレマイオス朝の後継者とするつもりでいたが、カエサルの死後、あらたな後ろ盾を必要としアントニウスと結ぶことにしたのだった。

アントニウスはすでに魅了されていたのかそれともその時になって魅了されていたのか、クレオパトラとの邂逅以降の彼は完全に腑抜けになってしまった。


腑抜けなだけならいいが、完全に狂ってしまった。


アントニウスはオクタヴィアと婚姻中にもかかわらずクレオパトラと結婚してしまう。

当時重婚はローマで禁止されていたにもかかわらず、アントニウスはあっさりとオクタヴィアを捨て、さらにクレオパトラとのあいだに三児をもうけてしまう。これにはオクタヴィアヌスも怒ったし、ローマ市民も怒った。

それだけに留まらず、アントニウスはクレオパトラに当方の諸地域を領土として割譲させ、カエサルの正当な後継者はカエサリオンだと主張し始めた。こうして、オクタヴィアヌスは次第にアントニウスへの対決心を強めていった。



第二回三頭政治の破綻編集

アントニウスは前35~前34年にアルメニアを攻略し、その地を属州にすることに成功したが、前34年秋にアレクサンドリアでその凱旋式を行った。ローマではアントニウスがアレクサンドリアをローマの首都にするつもりなのか、という疑いの声が起こった。さらに、同年、アントニウスが自己の獲得した東方属州の要地をクレオパトラに寄贈することとしたことで、ローマにおけるアントニウスとクレオパトラに対する非難が高まった。さらに前32年、アントニウスがオクタヴィアを離縁したことでオクタヴィアヌスとの対立は決定的となった。すでにレピドゥスが前34年に失脚していたことも相まって、ここで正式に三頭政治は崩壊した。


アクティウムの海戦、そして死編集

前31年、オクタヴィアヌスはついにクレオパトラをローマの敵として宣戦布告した。同じローマ人であるアントニウスに対する名指しは避けたのだった。アントニウスとクレオパトラはすでにギリシアが戦場となると見て、始めはエフェソスに、後にはアテネに本陣をかまえた。アントニウスは陸戦での決戦を望んだが、エジプト海軍による戦いを主張したクレオパトラに押し切られ、9月2日、ギリシア西岸のアクティウム沖でローマ海軍を迎え撃つことになった。アクティウムの海戦である。

このオクタヴィアヌスのローマ海軍とアントニウス・クレオパトラの指揮するエジプト海軍の決戦であるアクティウムの海戦は、機動力に勝るローマ海軍が、指揮系統もバラバラだったエジプト海軍を一方的に破った。アントニウスとクレオパトラは別れ別れになってアレクサンドリアに戻ったが、翌年クレオパトラが自害したという誤報を聞いたアントニウスは、アレクサンドリアで自殺した。


クレオパトラは今度はオクタヴィアヌスを籠絡しようとしたが失敗し、同じく自殺した。これによって、プトレマイオス朝エジプトは滅亡し、やがてエジプトはローマの属州とされ、オクタヴィアヌスの覇権は地中海全域に及ぶこととなった。


創作物において編集

戯曲編集

アントニーとクレオパトラ

シェイクスピア作。何度か映画化もされている。


小説編集

アルハザードの発狂

イギリスのD・R・スミスが1950年に発表した、クトゥルフ神話作品として数えられる短編小説。

この作品で飢餓のためにアルプスへ迷い込んだアントニウスは、洞窟に封じられていた<大いなる彼のもの>との戦闘に入る。目にしただけで死ぬほどおぞましい姿をした<彼のもの>にアントニウスは果敢に攻め入り、劣勢の<彼のもの>が召喚した配下の邪神群もユピテルの雷光で追い払い、そのまま<彼のもの>を掴み上げて焚き火へと放り込み、半ば炭と化した<彼のもの>の肉といまだ脈打つ心臓を食らい滅ぼして勝利。

己の信ずる神々が人間に敗北したことで、アルハザードは絶望のあまり発狂してしまったという。

なおこの<彼のもの>、アザトースと同格にして、ヨグ=ソトースクトゥルフの親であり彼らよりも強大であるという化け物であり、そんなものとタイマン張って勝つというもはやギャグとしか思えない展開となっている。



関連タグ編集

古代ローマ

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