概要
近江の宇多源氏佐々木氏棟梁である佐々木秀義の次男として生まれる。母は宇都宮氏の女。
平治元年(1159年)の平治の乱で父が従った源義朝の敗北により、一門と共に関東へと落ち延び、伊豆に流された義朝の息子である源頼朝に仕える。
治承4年(1180年)8月、頼朝挙兵の狼煙となる伊豆目代山木兼隆討伐に従軍し、兄の定綱と共に兼隆の後見・堤信遠邸宅を襲撃する。
この際、堤邸に放った彼の矢が、源平合戦における最初の一矢となった。信遠を討った後も頼朝に従って石橋山の戦い・富士川の戦いに参戦し、挙兵後初の論功行賞で、経高ら兄弟は旧領の佐々木庄を安堵される。
文治勅許の後、淡路、阿波、土佐の三国守護に任じられるが、頼朝の死後に後鳥羽上皇の怒りを買って解任される。
承久の乱では京方についたが、宇治川の戦いで敗北し、後に自害した。
翌年には嫡男の高重が紀伊で、次男高兼が阿波で討ち死に(自害という説もある)している。