この城は江戸時代初期に建造されたものの、火災により数度焼失。天守閣は享保年間(1716年~1735年)に焼失後、再建されなかった。また天保年間(1830年~1844年)にも焼失しており、現存する遺構はその時のものである。
また、佐賀の乱(明治7年に佐賀藩士である江藤新平などを頭目とし、佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱、戦後処理などに問題があったとされる)により大半が破壊された。
近年の発掘調査において天守は小倉城(江戸時代前後、毛利勝信により豊前国小倉に建造された城。勝山城、指月城とも呼ばれた)と酷似していたことが判明している(改修の際小倉城を参考にしたといわれていたが、それが確認された)。
概要
この城は別名、佐嘉城、栄城、沈み城、亀甲城など複数の名前を持っていた。
元は龍造寺氏の居城で佐賀龍増寺城(村中城)と呼ばれていた城であったが、江戸時代に鍋島氏によって本丸を中心に大幅な改修拡張が行われ、現在の佐賀城となった。 この城の拡張当初には4重5階の天守閣が存在したというが、前述のとおり何度も火災に見舞われており天守もこれで焼失しているため、資料や発掘などの調査によるものである。
さらに明治7年、江藤新平ら士族による「佐賀の乱」が発生し、一時佐賀城は反乱軍に占拠されることとなり、この反乱の際にも多数の建築物を焼失している。
その後小学校などの公共施設が建設された。
平成16年、本丸御殿の一部が復元され、「佐賀城本丸歴史館」がオープンした。
なおこの城は平成18年に日本100名城に認定されている。