曖昧さ回避
- 日本初のドゥーワップ・グループ「ザ・キング・トーンズ」のリーダーでリードテナー。
- 元・日大理事で元・アメリカンフットボール部監督。
ザ・キング・トーンズの内田正人
1936年10月29日、横浜市(神奈川県)に誕生。子供の頃から歌が好きで、多様な音楽に親しんだ。
1955年、日本大学に入学。ラジオ東京ののど自慢番組「青春ジャズ大学」で審査員の笈田敏夫から「黒人の音楽が似合う」と言われ、研究のためレコードを買い熱中する。
1958年、のど自慢大会で知り合った仲間と「ザ・ファイブ・トーンズ」を結成。メンバーは成田邦彦、石井迪、加生スミオ、佐藤サエコ。
1960年、佐藤が体調を崩して脱退し、グループ名は「ザ・キング・トーンズ」となる。米軍キャンプをサーキットし、十分過ぎるほど稼いでいたためプロ・デビューには消極的だった。
1968年、日本グラモフォン(後にポリドール・レコード)からの熱望に応え、契約を結ぶ。日本にはドゥーワップに対応できる作詞家がいなかったため、ポリドール・レコード洋楽課に勤務していた松村孝司が「むつひろし」のペンネームで作詞した「グッド・ナイト・ベイビー」でデビュー。
1969年、仙台市から火がつき、「グッド・ナイト・ベイビー」はオリコン・チャートで2位に達する。1位には「ブルー・ライト・ヨコハマ」(いしだあゆみ)が居座っていた。
1971年、「暗い港のブルース」がヒット。
1991年、和歌山県のCMに出演し「WAKAYAMA」をアカペラで歌う。翌年、CDシングルも発売された。
2004年、脳梗塞で倒れる。
2005年、リハビリを経て、フジロックフェスティバルでステージに復帰。
2017年、内田の体調がすぐれないため、替わりにジミー入枝がザ・キング・トーンズに加入。
2019年2月15日、病気により死去。
関連タグ
歌手 ドゥーワップ ザ・キング・トーンズ グッド・ナイト・ベイビー
元・日大理事の内田正人
1955年8月9日、埼玉県に誕生。
1974年、日本大学豊山高等学校を卒業し、日本大学に入学。アメリカンフットボール部に入部。
1978年、日本大学アメリカンフットボール部のコーチとなる。
1979年、日本大学文理学部職員となる。
2003年、日本大学アメリカンフットボール部の監督となる。
2011年、日本大学評議員に選任。
2014年、日本大学理事、人事部長を兼任。非常勤講師の多くを雇い止めする方針を示し、文部科学省が禁じる民間業者への授業の丸投げや、偽装請負の問題が指摘された。
2018年、2月24日に首都圏大学非常勤講師組合が「手続きが違法」として日本大学を刑事告発。
5月21日、首都圏大学非常勤講師組合は日本大学への緊急要求申入書で、責任者の内田を解任、解職することを求めた。
6月1日、日本大学は内田が「学内外に多大な迷惑をかけた」として、5月30日付で日本大学の常務理事を辞任したと発表。
日大アメフト部悪質タックル事件
2018年5月6日、関西学院大学と日大のアメリカンフットボールの定期戦で、日大の選手が危険な反則行為をした件で、内田が指示を出していたのではないかと疑惑を持たれた。
5月19日、記者会見で「一連の問題はすべて私に責任がある」と述べ、監督を辞任する意向を示した。
5月29日、関東学生アメリカンフットボール連盟は内田を除名処分とした。
7月30日、日本大学理事会に第三者委員会から最終報告書の提出があり、臨時理事会で内田正人前監督を懲戒解雇にすることが決定された。
11月13日、警視庁は内田が実際にはプレーを見ておらず、反則行為を指示した言動は確認できず、悪質タックルの指示はなかったと認定し、傷害容疑で書類送検。
12月6日、日本大学は懲戒解雇を撤回し、前監督の退職とすることで和解が成立。
なお、内田の指導は非常に厳しかったことで知られ、彼の退任後、厳格な指導者のいなくなった日大アメフト部はモラルや規律の低下が著しくなり、これが部員内の薬物の乱用とそれに伴う2023年の日大アメフト部の廃部に繋がることになった。
関連タグ
一般通過爺:他人の空似