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説明編集

秋月型駆逐艦の4番艦。艦名は「新月」を表わす。特に天保暦の8月の初月のことを指している。


1941年7月25日に舞鶴海軍工廠で起工、1942年4月3日進水。同年12月29日に竣工した。


竣工後、横須賀鎮守府部隊に編入。1943年1月15日に第三艦隊(空母機動部隊)に編入され、第10戦隊第61駆逐隊に配属される。この第61駆逐隊は最新鋭の秋月型駆逐艦によって構成され機動部隊の直衛を担うはずであったが、ガダルカナル島の戦いに投入されたあげく照月が戦没、秋月涼月が損傷→長期離脱を繰り返すなどしたため、4隻体制を維持すること自体が困難だった。このため初月は、就役後しばらくは本土と泊地を回航する艦の護衛任務に従事し、空襲で大破した青葉の援護や、戦死した連合艦隊司令長官山本五十六元帥の遺骨を載せて日本に向かう武蔵の護衛などを行っている。


本格的な実戦参加は1944年6月のマリアナ沖海戦からとなり、海戦第一日目には大鳳の直衛を務め、大鳳および翔鶴の沈没後は乗員救助にあたった。海戦第二日目には瑞鶴を護衛。この戦いでは瑞鶴に対して重油を給油している(大型艦が護衛の小型艦から給油されるというのは異例。その逆ならばいくらでも例があるが)。また、救助作業中に取り残されて二度も本隊とはぐれている。


レイテ沖海戦編集


1944年10月のレイテ沖海戦には、米機動部隊を北方へ誘致するための囮部隊であった小澤治三郎中将率いる機動部隊の一艦として戦闘に参加。10月24日、伊勢日向、秋月、若月霜月とともに前衛部隊を構成し、敵機動部隊への夜襲を試みるも会敵出来ず、夜半過ぎに瑞鶴を中核とする本隊と合流。10月25日朝、機動部隊はエンガノ岬沖で米軍第38任務部隊の艦載機による空襲を受け、エンガノ岬沖海戦が始まる。小澤艦隊は空襲により瑞鶴以下全ての空母を喪失。またこの日の朝には同じく空襲により就役以来の戦友であった秋月も爆沈する。


瑞鳳沈没後、若月桑(駆逐艦)とともに瑞鶴瑞鳳の乗員救助にあたる。救助作業中、消息不明の千代田を求めて南下してきた五十鈴と合流。初月は五十鈴から千代田捜索を依頼され、南下の準備を始めていた。しかし、日本艦艇の掃討を主任務とする重巡2、軽巡2、駆逐艦12によって構成されたローレンス・T・デュボース少将率いる米艦隊によって、千代田はすでに撃沈されていたのである。同艦隊は漂流する千代田を一方的にたたきのめし、更なる敵を求めて北へと向かう。


18時53分、米艦隊から砲撃を受ける。初月は即座に煙幕を展開し、僚艦と共に敵弾を避けて北上する。このとき、初月の位置は僚艦たちよりも米艦隊に近かった。


19時5分に小澤中将に向けて「敵水上艦艇ト交戦中」と打電。当初は北へ離脱を図った初月だったが、彼我の距離が6カイリとなった段階で反撃態勢を整えて単独で反転、計16隻からなる米艦隊と交戦を開始。反転に際して艦首脳部でどのような判断があったかは不明だが、南東から迫る米艦隊に対して面舵をとる形で反転しており、敵の進撃を押さえようという意図があったことが推察される。また、大規模な改装を終えたばかりの五十鈴が練度不足であった為とする説もある。

なお、初月の反転は僚艦たちからは認識されておらず、戦後に米軍側の海戦資料が公開されるまでの間、退避中に被弾して落伍、その後撃沈されたものと推察されていた。


19時15分以降には二度にわたって雷撃態勢をとり、その度に米艦隊は魚雷を避けるため急速変針を強いられた。この行動は敵艦隊の進行を遅らせるための偽襲行動であったともいわれる。ただし、米艦隊側の報告には艦首スレスレを通過した魚雷があったという資料もあり、実際に魚雷を発射したのではという意見もある。

米艦隊からは艦の上部構造物に砲弾が直撃、炎上する様子が観測され、また20時30分頃には魚雷が命中し速力が低下、このためさらに距離を詰められることとなった。炎上しながらも北へ退避しつつ発砲を続け、米重巡ウイチタは至近弾を浴びて負傷者1名を出した。


米艦隊は秋月型駆逐艦の艦影や上部構造物の大きさなどから初月の艦種を巡洋艦クラスの阿賀野型、夕張型、青葉型などが交戦中の敵艦(初月)の候補に挙がっており(「テルツキ型駆逐艦」と正確に認識していた米艦もある)、この誤認は20時44分に星弾を撃ち上げて以降(避退中の五十鈴からも確認)、初月が撃沈されるまで続いた。


20時39分まで20ノット以上の高速で戦闘行動を行い、対峙した米海軍から「我が軍の正確なレーダー射撃を、不正確なものに変えてしまった見事な回避運動」と称賛された初月だったが、20時45分に直撃弾を浴び、ついに航行不能となる。米駆逐艦ポーターフィールドが止めを刺さんと接近しつつあった20時56分、艦首から爆発を起こし沈没。ポーターフィールドから初月沈没の報告を受けたデュボース少将は、「私は断腸の思いである(原文通りに訳せば「私の胸は張り裂けそうだ」のほうが近い)」と返信した。


初月撃沈に多大な時間と弾薬、燃料を消費した米艦隊は、追撃を断念して戦場を離脱。二時間以上にわたる単艦戦闘の結果、小澤艦隊残存艦は脱出に成功した(23時05分に米潜に撃沈された多摩を除く)。この時、初月撃沈に要した弾薬は艦隊全体で3000発以上とされ、徹甲弾も大量に消費していた。

第61駆逐隊司令天野重隆大佐、艦長橋本金松中佐以下、乗組員290名が戦死。一度は海中より救助された瑞鶴の乗員も運命を共にした。僚艦の若月が500名以上の瑞鶴乗員を救助していたことから、初月もほぼ同数の漂流者を救助していたと推察されている。

単独戦闘中の轟沈により当初は生存者なしと考えられていたが、救助作業中に戦闘が始まって海上に取り残された初月搭載の内火艇はその後21日間の漂流を経て台湾の南東にある島に流れ着き、途中死者を出しながらも初月の乗組員8名、瑞鶴の生存者17名が生還した。


1944年12月10日に除籍。


長崎県佐世保市・佐世保東山海軍墓地には、第61駆逐隊とともに初月の慰霊碑が建てられており、生存者により鎮魂歌が贈られている。


 魂きはる

生命をかけて

     國鎮る

わが初月の

  御霊安かれ



関連タグ編集

駆逐艦 秋月型駆逐艦 大日本帝国海軍

涼月(駆逐艦) 新月(駆逐艦)

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