概要
呂号潜水艦とは大日本帝国海軍(以下日本海軍)が運用していた潜水艦の大分類における、基準排水量量500トン以上1,000トン未満の二等潜水艦のこと。
日本海軍は排水量別にランク分けし、排水量が大きい順に上からイロハでクラス分けした。
他、排水量1,000トン以上の潜水艦を伊号潜水艦、500トン未満の潜水艦は波号潜水艦とされた。(尚、呂号潜と波号潜は共に二等潜水艦とされた。)
アメリカ海軍や戦後の後継組織・海上自衛隊の潜水艦と違い、艦固有の名称は付与されず、ドイツ海軍の潜水艦同様番号で呼ばれている。
分類
呂号潜水艦の代表的なものは、海中型潜水艦であるが、経緯別に分類してみる。
日本海軍初設計組 「海中1型」「海中2型」「海中3型」「海中4型」「海中5型」
日本海軍は、輸入・国内ライセンス生産の潜水艦で技術を蓄積していた。日本海軍は、蓄積した技術と初の独自設計で作った潜水艦が海中1型潜水艦である(ただし、日本海軍初の独自設計潜水艦であって、日本国内初の独自設計潜水艦は川崎型潜水艦なので、その点は注意である)。
その後海中1型潜水艦から発展し、最終的には海中4型潜水艦まで作られた。
海中4型潜水艦の次級に当たる海中5型潜水艦(特中型潜水艦)は、第一次世界大戦のドイツUボートの通商破壊作戦における戦果から、通商破壊主眼の設計とするため、前級の海中4型潜水艦に比べ、速力を落とし代わりに、航続力を伸ばす仕様となった。
そんな発展の中、ワシントン海軍軍縮条約がきっかけで、日本海軍の潜水艦建造は、伊号潜水艦の巡洋潜水艦・海軍大型潜水艦に集中することになり、海中1型潜水艦から続く流れは、一旦止まることとなった。
ライセンス生産組 「F1型」「F2型」「L1型」「L2型」「L3型」「L4型」
日本海軍初設計組が作られ始めて少し経った頃、海外の潜水艦のライセンスで国産建造したグループである。
ライセンス生産された艦種は2種類で、1つはイタリアのフィアット社が設計したロレンチ型潜水艦をライセンス生産したグループ、もう1つはイギリス・ヴィッカース社が設計したL級潜水艦をライセンス生産したグループである。
ロレンチ型潜水艦をライセンス生産したグループは、F1型潜水艦と、その改良設計型のF2型潜水艦の2種類がある。このグループは、主機などに問題点があり、F1型潜水艦・F2型潜水艦合わせても5隻しか建造されなかった。
L級潜水艦をライセンス生産したグループは、L1型潜水艦とL1型潜水艦から発展した進化し続けたL2型潜水艦・L3型潜水艦・L4型潜水艦の4種類がある。このグループは、耐波性、航洋性、居住性が良く好評であったため、改良進化しつつ生産された。
しかし、上記の日本海軍初設計組同様、伊号潜水艦の巡洋潜水艦・海軍大型潜水艦に建造を集中するために、生産は終了した。
戦時急造組 「海中6型」「中型」「小型」
ワシントン海軍軍縮条約で要因で、建造しなくなった呂号潜水艦が再び建造されるきっかけとなったのは、ロンドン海軍軍縮条約であった。潜水艦の保有に排水量で制限が設けられたため、排水量が多い伊号潜水艦より排水量が少ない呂号潜水艦の方が数を多く持てて有利と日本海軍は考え、呂号潜水艦の生産が再開されることとなった。
再開に当たり、最初に生産されることとなったのが海中6型潜水艦であった。海中6型潜水艦は、戦時急造艦としてのプロトタイプとして2隻が建造された。この艦艇の2番艦が竣工した翌年、第二次世界大戦が勃発した。
次に建造された呂号潜水艦は、小型潜水艦で、竣工したのは1942年だった。こちらは、海中6型潜水艦よりも排水量が少ない潜水艦で、離島防御用として作られた。
1943年には、海中6型潜水艦をベースとして改設計した中型潜水艦(海中7型潜水艦)が竣工した。中型潜水艦は海中型系列の最終型となった。
譲渡組
1944年、ドイツ海軍が日本海軍にUボートの量産させるために無償譲渡した潜水艦がU511とU1224の2隻で、日本海軍の艦籍になってそれぞれ呂号第五百潜水艦、呂号第五百一潜水艦と命名された。
呂号潜水艦を元ネタにした作品
艦隊これくしょん
潜水艦娘として呂500(艦隊これくしょん)が登場している。
戦艦少女
戦艦少女として呂34(戦艦少女)が登場している。