人物
生誕は諸説あるが有力なのは1385年。
父である8代目・貞茂(さだしげ)が亡くなったため家督をつぐ。
その翌年にはかつて先祖(2代目の助国の時の元寇)が散った他国(この時は李氏朝鮮)侵略に遭う。
しかし、先代が散った無念を晴らすがごとく対馬で奮戦して膠着(こうちゃく)状態まで持っていき南下を阻止することに成功。朝鮮はしつこくせまったが条件をすべて拒否した後で「元寇のようになる」といい追い返した。
しかし、貞盛は報復などせず逆に様々な条約を結んで関係回復を図った。
これを応永の外寇という。貞盛もまた日本を侵略から守った人物であろう。
しかし、朝鮮の貿易に目を付け始めた大内氏と対立、合戦まで行くも破れてしまう。
68歳で死去。子の成職が継ぐも死去したため弟の子が跡を継いで今に至る。
人物像
・性格は不明であるが朝鮮側に送った手紙には「7月は台風(野分)が多いので撤退したほうが良い」
と書いたり、報復をせずに逆に回復に努めるなど平和主義者と推測される。
・この時朝廷や幕府は足利義持の明国との不和の事もあってか中国だと誤解したらしい。
・倭寇が原因とされるも貞茂や足利義満の政策で鎮静化はしていた。
・大正時代、父の貞茂に従四位が与えられたが実はこの恩賞は(本来なら)貞盛に与えられるはずだったものを貞茂に送ってしまったという(当然だが外寇の時には貞茂公はいない)