概要
1979年生、山梨市出身。母や弟も教員という教育関係者が多い家庭に生まれる。
慶應義塾大学文学部人間関係学科卒業後、英語教員として母校でもある山梨学院大学附属中学高等学校に勤務。
小学生の時に組合所属の教師からいじめを受けた経験もあり、以前から日教組系教員組合系の活動に対して疑問や反発を持ち続けていた。これに加え、教員時代に勤務先の学校で生徒が自殺した事件を契機に政治家を志した。
5年の教員生活ののち退職して松下政経塾に入り、2010年に自民党公認候補で日教組系大物輿石東の対抗馬として参議院選挙に出馬。自民党山梨で初の女性国政候補者となり輿石に3,700票差に迫ったものの破れる。
2012年に衆議院選挙に出馬して初当選。
その後3期務めた。
元教員のため教育政策には特に力を入れており、児童虐待対策や女性特有の疾患対策も訴えていた。
2019年9月12日深夜、同日の朝に死去していたことが発表された。享年40歳の若さであった。
3年半前から乳がんを患っていたが、家族を含めたごくわずかの関係者にしかその事実は知らされず、人知れず治療をしながら政治活動を行なっていた。第四次安倍改造内閣では文部科学大臣政務官をつとめ、亡くなる年の初夏までは一見元気に政治活動を行っているかに見えていたが8月には容体が悪化、8月中旬には面会謝絶の状態に陥っていた。
この急なあまりに早すぎる訃報に自民党の国会議員達や親交のあった著名人も一様にショックを受けた様相のコメントを発表しており、野党でも立憲民主党のマスコットキャラ「民主くん」のアカウントや同じ松下塾出身の井戸正枝、福島瑞穂らもお悔やみを表明した。
自民党内で特に親しかった三原じゅん子は彼女自身もガンの罹患経験があることから、晩年の彼女の様子から薄々きつい抗がん剤を使用していることに感づいていたというが、宮川が自分から病気のことを語ろうとしなかったためそのままになっていたという。
宮川が最後に三原と会話したのは、「女性にがん検診を促すステッカーを党本部の女性トイレに貼らせて欲しい」と頼まれたことだったという。
同月29日に行われたお別れ会ではかつて議席を争った輿石もお悔やみに訪れ、麻生太郎や三原が弔辞を読んだ。三原は弔辞で上記のステッカーが「一人で悩んでいませんか」と呼びかけるものだったことを明かし、「一人で悩んでいたのはあなただったのに」と彼女の最期の心境を慮った。
彼女の死去に伴い、自民党の出畑実が繰り上げ当選となった。