略歴
1915年、当時の東京府に生まれる。海軍の高官だった叔父からもらった軍艦写真、兄の友人からもらった飛行機模型をきっかけにメカニックに興味を示すようになる。
1938年、小樽新聞の連載小説の挿絵を担当し、1940年に「国防科学雑誌 機械化」の表紙で画家として本格デビューした。この「機械化」は陸軍の外郭団体である機械化国防協会が編纂した雑誌であり、青少年をターゲットに軍事・兵器知識を啓蒙することを目的としていた。
小松崎らは「新案兵器」のコーナーで、将来出現すると予測した兵器を迫力のあるイラストと緻密な内部図解で描き人気を博した。
その中でも光線兵器を搭載した「怪力線戦車」、武装オートジャイロの「空中戦車」などは後に小松崎が得意とした未来メカニックの片鱗を現わしている。しかしこれらの雑誌は戦後、軍国主義的出版物として在庫、原画ともに焼却処分された。
戦後は西部劇物語ものや空想科学冒険ものの絵物語、昭和30年代には戦記もののイラスト、東宝特撮のメカデザインなどで活躍した。
その中でも1963年公開の「海底軍艦」に登場した「轟天号」は艦首にドリルを供えた独特のデザインで後のSFメカに大きな影響をあたえた。1961年には、小松崎が初めて箱絵(ボックスアート)を手掛けた「1/35ドイツ パンサータンク」が田宮模型から発売され、以後この分野でも活躍を見せた。
長年一線級で活動し人気を博したが、1995年、自宅が火災に遭い、多数の原画、制作中の作品などが焼失する憂き目に合う。ただし、消失を免れた作品が21点程現存していた事が「開運!なんでも鑑定団」で持ち込まれた事で判明。その作品群の価値は総額500万円近いものであると鑑定された。
1990年代以降、画集の出版、展覧会開催など評価が進む。
2001年永眠。86歳の生涯に幕を下ろした。
作品
小松崎のメカデザインは、今となっては昭和ノスタルジー・レトロフューチャーの代表格のひとつとして扱われている。
昭和30〜40年代には各社少年誌や児童誌で(当時の)最新の科学研究を紹介したり、そこから未来予想図を描いて載せた特集がよく組まれていた。そこのイラストでも石原豪人や伊藤展安らと共に活躍している。
21世紀の現在から見るとブッ飛んだ未来予想図にもリアルな画風と巧みなデザインで説得力を持たせてしまう。
これら雑誌では夢の未来図だけでなく、有名な「イルカがせめてきたぞっ」をはじめとする(カオスな)アポカリプスもしばしば描かれた。
なお、先述の火災による大量の原画・作品の焼失には「また描けばよい」と火災の憂き目にあってもなお創作意欲をみせていたという。