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御蔵型海防艦

みくらがたかいぼうかん

大日本帝国海軍の建造した海防艦のグループのひとつ。対空・対潜戦闘能力を向上させた最初期の汎用型海防艦。
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メイン画像はオリジナル艦娘。ブラウザゲーム『艦隊これくしょん』のキャラクター群については「御蔵型」を参照のこと。


設計と建造編集

大日本帝国海軍により太平洋戦争中に南方航路の船団護衛向けに建造された海防艦。当初は“乙型海防艦”と呼ばれていた(後に甲型海防艦に編入)

日本海軍の戦時建造計画“マル急計画”で、占守型の小改良型である択捉型の建造と並行して、設計・整備が進められた。


旧来の占守型および択捉型が、元々は北方海域での警備任務向きで船団護衛にマッチしない装備構成だったのに対し、より対空対潜能力を向上させた汎用タイプとすべく改設計が行われている。

船体は択捉型に比べて少しだけ拡大され、主砲は12cm高角砲を単装1基・連装1基の計2基3門。また爆雷は搭載個数120個と択捉型の36個から3倍以上に増強され、爆雷投射機も九四式投射機(Y砲)2基となった(後に掃海具を撤去して対潜兵装の増強が行われている)。一方で択捉型まで搭載されていた「暖房用」の補助ボイラーは省略され、それ以外の居住空間も簡素化が行われた。“軍艦籍”から外されたために、艦長室の工作も簡略化されている。

船体も耐氷装備や甲板室の省略、材質の見直し、熔接の適用範囲の拡大などで簡略化に努めた。燃料庫の一部も爆雷庫に転用したため、航続距離は択捉型の8000海里から5000海里にまで減少している。もっとも、これについては当初の要求から“5000里”と指定されており、南方の航路保護には元々過大だったスペックを“割り切った”とも言える。


御蔵型の成功と失敗編集

失敗・反省点編集

このように従来の海防艦に比べ武装の増強や設計の簡素化が行われてた御蔵型だったが、完成してみると中途半端な内容の艦となってしまった。工数は57,000と、占守型の90,000~100,000以上、択捉型の70,000と比べてかなり削減できたが、それでも建造期間は平均9ヶ月と、“数を揃えてなんぼ”の護衛艦艇としては十分な内容とは言えなかった

これについては、複雑な二次曲面が残るなど、船体工作の簡略化の不徹底が直接の原因とされている。当時、対潜戦闘には“速力20ノット前後”が必須とされ、速力の低下に繋がる船体の簡易化に二の足を踏んだのである。しかし、対潜戦闘には邪魔者でしかない掃海具を後甲板に残すなど、他にも疑問の残る設計が随所に見られる。

海軍の姿勢も緊張感を欠いていた。ミッドウェー海戦後の改マル五計画では改御蔵型(後の日振・鵜来型と同一かは不明)34隻の追加建造が計画されたが、マル急計画の主力艦が完成した後に着手とされ、1番艦の完成が昭和20年6月という、恐ろしく呑気な線表(スケジュール)となっている。下手をすると、「この程度の手直しで十分」と思っていたフシさえある。

(たとえ計画通りに全艦建造できたとしても、マル急・改マル五計画あわせて70隻程度しか完成しない点にも注意。これでは、長大な南方航路をカバーするには、とうてい足りない

全体を見回してみると、そもそもの御蔵型の失敗の背景には、日本海軍の海上交通保護に関する認識不足や見通しの甘さ、間違った個艦優秀主義などが窺えてくる。


設計にも手間取ったらしく、穴埋めに当初12隻建造予定だった択捉型の建造が継続され、2隻が追加建造される事態となっている。さらに昭和17年後半から、通商破壊戦による船舶の被害が急増。いよいよ尻に火が点いた日本海軍は、1番艦・御蔵の完成(昭和18年10月)前に御蔵型の建造継続を放棄。以降は更に船体構造の簡素化を徹底した大量生産向けの改設計型2タイプ(御蔵型の武装をそのまま踏襲した日振型と、掃海能力を排し更なる対潜能力向上を図った鵜来型)の製造に移行した。

御蔵型は当初のマル急計画では16隻の建造が予定されていたが、結局、8隻で打ち切られ、海防艦の中では少数派に留まった。


成功と遺産編集

しかし、とにもかくにも日本海軍は、それまでの“畑違い”な占守・択捉型に代わって、御蔵型でようやく本格的な航洋型護衛艦の新たなプロトタイプを得たのである。性能面でも当初の要求はほぼ満たしており、後の日振・鵜来型では抜本的な簡略化が行われたが、基本的な構成は御蔵型で既に完成していたと言える。

加えて、御蔵型8隻のうち3隻は日立造船桜島造船所、5隻は日本鋼管鶴見造船所で建造されており、後に前者は日振型、後者は鵜来型と第一号型の建造で主導的な役割を果した。御蔵型での経験とノウハウの蓄積が役立ったとは想像に難くない。


御蔵型自身は成功作ではなかったが、日本の護衛艦艇史上で欠かせぬマイルストーンだと言えるだろう。少数派に終わったが、見方を変えれば、代わりのないまま建造を続けざるを得なかった択捉型より、早めに次代にバトンを渡せて幸いだったかもしれない。


戦歴編集

御蔵型8隻が就役した昭和18年10月~昭和19年5月は、被害の激増から護衛艦艇が“渇望”されていた時期であり、即実戦投入の厳しい戦いが待ち受けていた。

活躍を採り上げると、千振駆逐艦・時雨第十九号とともにSS-215・グロウラーを撃沈、御蔵も第三十三号、五十九号、六十五号とともにSS-237・トリガーを沈めているが、千振、御蔵とも後に沈没し、終戦まで生き残れなかった。

結局、8隻中、過半数の5隻が戦没。これは海防艦の中でもとりわけ高い損耗率である。

生き残った3隻のうち、賠償艦として倉橋英国に、屋代中華民国に引き渡され、倉橋は間もなく解体されたが、屋代は1963年に解体されるまで姿をとどめていたという。


同型艦編集

  1. 御蔵(みくら)
  2. 三宅(みやけ)
  3. 淡路(あわじ/あはじ)
  4. 能美(のうみ)
  5. 倉橋(くらはし)
  6. 屋代(やしろ)
  7. 千振(ちぶり)
  8. 草垣(くさがき)

ちなみに戦後、海上自衛隊に継承された艦艇は次の通り。


御蔵

  • かさど型掃海艇 9番艇『みくら』(退役)

淡路

能美

  • あわじ型掃海艦 4番艦『のうみ』(未就役)

屋代

  • やしろ型掃海艇(同型無し)『やしろ』(退役)

千振

  • かさど型掃海艇 17番艇『ちぶり』(退役)

関連項目編集

海防艦

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