ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

占守型海防艦

しむしゅがたかいぼうかん

大日本帝国海軍の建造した海防艦のグループのひとつ。それまで旧式化した軍艦を転用していた海防艦という艦種において初めて新造艦で構成された。
目次 [非表示]

ブラウザゲーム『艦隊これくしょん』のキャラクター群については「占守型」を参照のこと。


概要編集

大日本帝国海軍により建造された初の新造海防艦(それまでは海上警備に当たる海防艦は旧式化した戦艦巡洋艦が転用されていたが、本級の就役に伴って見直しが行われ、巡洋艦籍への復帰や練習特務艦への格下げがなされている)。


昭和初期にソ連との間で頻発したオホーツク海方面での漁業紛争に対し、漁業保護任務(日本船籍の漁船をソ連の警備艇に拿捕されないように見張り、万一日本船籍の漁船が拿捕されたときは取り返しの交渉に行く)に充当させるためにマル3計画で建造が決定された。それまで同任務には駆逐艦が派遣されていたものの、当時の日本駆逐艦は艦隊決戦に主眼が置かれ居住性や航洋性が犠牲にされていた為、荒れる極寒のオホーツク海での任務には不向きであった。


占守型海防艦(竣工時)


占守型海防艦はそれに対し、舷側を高くし艦首楼を長めに取り、軽武装ながら航続距離も長く、なおかつ対氷構造の船体に解氷装置や暖房設備の充実など、北方海域での警備活動に特化したものとなっていた。艦内設備も非常に充実しており、例えば高性能の造水装置によって、乗員は停泊中なら毎日でも入浴できた(当時の小型艦では、風呂どころか「洗面器1杯ほどの海水で体をぬぐう」のがやっとという例も普通だった)。これらの設計は艦政本部によるものではなく、三菱重工業に委託されたものであったという。

駆逐艦より小型であるにもかかわらず、就役当初はソ連との外交交渉という任務の性質上、菊花紋章を艦首に掲げた海軍大佐や海軍中佐(要するに鍔に飾り縫いのある制帽を着用する佐官)が艦長を務める軍艦として扱われていたが、後に昭和17年7月に護衛用補助艦艇に格下げされた。先述のとおり、駆逐艦よりも小さい他、海軍の内部でも著名な艦ではなかったため、軍艦時代の占守型では、海軍少佐が駆逐艦長を務める駆逐艦が欠礼、占守型がこれを咎めるといったことも起きている。

なお、艦の格下げ後も艦長については、1943年(昭和18年)10月までは引き続き中佐以上の佐官が務めていた。


新型海防艦(占守型)が構想された当時、既に日米関係は冷え込んでおり、対米開戦に至った場合には南方海域での船団護衛も視野に入れられていた。戦時の大量建造も考慮されていたとされるが、実際には上述のように非常に凝った設計・工作のため、排水量は陽炎型駆逐艦の4割にもかかわらず、製造工数は2割程度少ないだけという、「手間とコストのかかる艦」になってしまった。

量産性がないばかりか、爆雷の搭載数も投射器の数も少なく、ソナーは未装備(準備工事は施されていた)、主砲は仰角を取れず有効な対空射撃ができない、と、航続力以外は航洋型護衛艦として全く残念な性能となってしまった。これは艦政本部の指導が不足していたと批判されている。


太平洋戦争が開戦すると、当初の目論見通り、海防艦は東南アジア方面の船団護衛にも回されるようになった。対潜攻撃能力や量産性を向上させた派生艦級も次々と建造されるようになったが、前述の大量建造に不向きな基本設計が響き、建造・戦力化の立ち上がりが遅れてしまったのは、日本海軍には痛恨事だった。かといって、他に適当な艦型が存在しなかったのも事実であるが……


それでも占守型をプロトタイプとした甲型海防艦は、終戦までに計55隻が完成し、海上護衛戦の主力として活躍した。占守型自身も南西方面や大湊周辺などで護衛任務に就き、資料は少ないものの、電探の追加装備などで強化・変貌した艦影も記録されている。

厳しい戦いを強いられた海防艦・護衛艦艇の中にあって、艦運には比較的恵まれており、潜水艦に雷撃され戦没した石垣を除いて終戦後も健在であった。うち占守は戦後ソ連に賠償艦として引き渡され、それ以外は国内で解体された。


余談(“排水量(予算)水増し”と“隠れた姉妹艦”)編集

第三次海軍軍備補充計画(通称「マル3計画」)で予算請求された占守型は、“1,200トン型海防艦”とされていた。しかし、実際の占守型は排水量900トン未満。実に3割もの差がある。

“条約逃れ”などの理由で、排水量の“サバ読み”をする例は、洋の東西問わず少なくないが、“水増し”は珍しい。盛られた300トン分の予算はどこに消えたのだろうか?

裏金として海軍将兵の飲み食いに費やされた、なんて話は、もちろんない。


実は大和型戦艦に化けたのである。大和型の建造に当たっては徹底した機密保持がなされ、建造コストからスペックを推定されないよう、予算上は“金剛型代艦の3万5千トン級戦艦”と要求され、不足分は様々な名目で別に計上されていた。例えば、実際には建造されなかった陽炎型駆逐艦3隻や、伊15型潜水艦1隻分の予算、比叡飛龍の改装費用の一部流用、といった具合である。

同様に占守型の水増しされた300トン×4隻分も、大和型の血肉となったのだ。そのようないきさつを考えると、「日本海軍最小の“軍艦”」と「世界最大の戦艦」が、実は血を分けた姉妹だったという解釈も成り立つかも知れない。

(まあ、これを言い出したら陽炎伊19も、大和型の姉妹になってしまうかも知れないが)


同型艦編集

建造された同型艦は4隻。艦艇類別等級別表上は19隻となっているが、5番艦「択捉」以降は設計が異なり、基本計画番号も別のものが割り振られているため、「択捉型海防艦」として別級扱いとされる事も多い。

  1. 占守(しむしゅ)
  2. 国後(くなしり)
  3. 八丈(はちじょう/はちぢゃう)
  4. 石垣(いしがき)

ちなみに戦後、海上自衛隊には、やえやま型掃海艦3番艦として『はちじょう』(八丈、退役済)の名が継承された。


主な登場作品編集

キスカ島撤退作戦に参加した艦艇として「国後」が登場。霧の中で「阿武隈」と衝突する場面も描写されているが、史実と異なり艦隊から離脱し帰投している。


関連タグ編集

海防艦

関連記事

親記事

海防艦 かいぼうかん

子記事

兄弟記事

pixivに投稿されたイラスト pixivでイラストを見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ 総閲覧数: 1174

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました