概要
生年不詳~1565年。織田信長以前に畿内に覇を唱えた戦国大名・三好氏の家臣。
かの有名な「ギリワン」「ボンバーマン」こと松永久秀を実兄に持つ戦国武将である。
兄同様、出自や三好氏仕官前の前半生については不明な点が多い。
兄と共に、畿内進出を果たした三好長慶に仕官する。
腹黒い謀略家だった兄とは対照的に、誠実な性格の武勇に優れた戦上手の武将だったとされ、兄よりも早くに主君・長慶の信頼を得て出世も遥かに先んじており、戦よりも外交面での功績が大きかった久秀の出世も、この長頼の活躍によるところが大きかったとされる。
※ただし、この「兄と違って誠実」「久秀は弟の七光で出世した」、という文面は今谷明氏の研究書「戦国三好一族」が初出と思われ、著書の中にも出典があるわけではないので当時の記録における根拠はあまりないものと思われる。
早い段階から三好軍の一大将格に抜擢されて畿内を転戦し、足利義輝や細川晴元、その他敵対勢力との戦いで功績を挙げ、一門衆の十河一存と並ぶ軍事の要として名を連ねている。
その最大の功績は波多野氏を筆頭とする国人勢力の台頭が著しかった丹波国侵攻に見られ、戦を優位に進めつつ丹波守護代・内藤国貞を引き込み、更には国貞の娘を娶って「内藤宗勝」と改名、内藤氏を乗っ取って更に影響力を拡大し、丹波半国の実質的な国主として君臨した。
長慶没後もその影響力は大きく、家中の主導権を巡って三好三人衆と対立を深めていた兄の大きなバックボーンとなり、その権勢を支え続けていた。
しかし、1565年、最期は丹波の有力国人の一角で「丹波の赤鬼」の異名を取った猛将・赤井直正との戦いに敗れて戦死してしまった。
宗勝の死で丹波における三好氏の影響力も消滅したが、久秀に取っても三好家中における影響力を大幅に低下させるには十分な要因となり、以後、久秀は三好三人衆を抑えることが出来なくなり、長慶死後に仕えた三好義継共々不利な状況に追い詰められていくこととなる。
故に、久秀ら松永一族にとって彼の存在がどれだけ重要であったかが分かる。
宗勝の遺児にキリシタンとして有名な内藤如安がいる。宗勝の戦死から約50年後の慶長19年(1614年)、江戸幕府から発令されたキリスト禁教令を受けて高山右近とともにフィリピンのマニラへ向け国外追放されかの地で病死した。