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概要編集

1931年9月28日、東京府東京市四谷区番衆町(現:東京都新宿区新宿)出身。

1937年に台湾に転居し、中学2年生で終戦を迎え岡山県に引き上げる。

1955年に早稲田大学第一文学部仏文科卒業後、東宝の助監督試験に合格し入社。同期に恩地日出夫木下亮がいる。

黒澤明成瀬巳喜男らの作品で助監督を務め、監督昇進を目指し自らシナリオを執筆していたがなかなかその機会を得られなかった。

1966年に『ゼロ・ファイター大空戦』で監督デビュー。黒澤作品では実に5本でチーフ助監督を務め、師ゆずりの完璧主義で評価を高め、『日本沈没』と『八甲田山』で記録的な大ヒットとなった。

『八甲田山』は映画史上類を見ない過酷な撮影だったとされ、劇中で裸で死ぬ兵隊の肌が紫がかっているのは本当に凍傷になっていたためとされ、あまりに過酷な撮影から脱走した俳優もいたという。

しかし以後はヒット作に恵まれず、小松左京原作のSF大作『さよならジュピター』を控えていた中立花隆原作の『宇宙からの帰還』の準備中に胃がんで倒れ、1984年12月2日に死去した。

『宇宙からの帰還』は最終的にドキュメンタリー映画として制作されている。


デビュー作でも共にした黒澤映画の常連佐藤勝や、芥川也寸志といったベテラン作曲家とのコンビで大ヒットを飛ばしたが、以後は若手の作曲家と組むことも多く、晩年は佐藤から「ベテランを信頼して下駄を預ける度量を失いつつあるのではないか」とコメントされたこともあった。


監督作品編集

映画編集

テレビドラマ編集

  • 人魚亭異聞無法街の素浪人(1976年)
  • 腐蝕の構造(1977年)

関連タグ編集

映画監督 東宝

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