瞋恚
しんに
仏教において、人が最も克服するべき諸悪・苦しみの根源とされ、可能な限り取り払うべきで3つの煩悩である『三毒』の内の一つ。
どんなに功徳(人間として行うべき良い行為)を積んでも、1回の瞋りで台無しになってしまうといわれているので、仏教の修行者には怖れられている。
『瞋』(しん)とも呼び、平たく言えば怒りのことされるが、仏教においては単に怒りそのもののことではなく、怒りによって生まれる負の感情である『憎悪』『軽蔑(軽視・蔑視)』『嫉妬』などのこととされ、更には『不安』『恐怖』なども悪い怒りの表れとされ、『瞋』にあたるとされる。
「瞋り」の難しいところは、瞋る側が「自分が悪い」と思っておらず、被害者だと思い込んでいる点にある。
例えば「叱る」と「怒る」の違い。
親として未熟な人は「叱る」ではなく「怒る」になってしまう場合がある。
「叱る」は、時として子供を成長させる必要なものだが、「怒る」は感情の問題である。
子供が騒がしかったり、散らかしたり、親である自分のいう事を聞いてくれなかったり……。
「叱る」の場合は、そういう「行為」が良くないということを言い聞かせたり、子供のためを思って知ってもらおうとする姿勢を指す。
しかし「怒る」の場合は、自分の感情を相手にぶつけてすっきりしようとする利己的なものになってしまう。
子供の為ではなく自分の為、というのが「叱る」との違いである。
ただ、「叱る」を意識していても、いつの間にか「怒る」に変化していることがよくある。
「怒り」の感情の裏側には「悲しみ」や「情けなさ」がある。
「悲しみ」と「怒り」は表裏一体でもある。
「何故この子はそうなの?」という怒りの裏には、「できない」という悲しみがあるが、「できない」が続くと「しまいには情けなくなる」となり、それも積もり積もると「どうせ…」となって、行き場のない怒りが噴出してしまう。
表裏一体なので、悲しみの裏に怒りが生まれる場合もあります。
例えば恋人との待ち合わせで、相手が遅れて来たりドタキャンすると、「なぜ遅れるの?」とか「なぜドタキャンするの?」と悩み苦しむが、次第に自分を苦しませる相手に対し、怒りの感情が沸き上がってしまう。
そういう怒りの裏には「私が悲しむのはあいつが悪いからだ!」という被害者意識が存在している。
相手の都合に配慮しない。また、だらしない相手を恋人に選んだ自分の落ち度を無視する、まさに自分本位な考え方である。
自分本位な思いから発展した「瞋り」は、目の前の世界を歪んで見ることになる。
そすうると真実を見誤ってしまう恐れがある。
しかし、ただ単純に、怒らないように、悲しまないようにしなければいけない、というわけではない。
怒りや悲しみの気持ちを一切押さえていたら、我慢しすぎで人間はおかしくなってしまうので、上手に発散させる必要がある。
でも、怒ってしまうと功徳が台無しになってしまうのが痛いところでもある。