概要
紀州徳川組とは、DMMGAMES『刀剣乱舞-ONLINE-』に登場する刀剣男士のうち、御三家の紀伊徳川家に伝来したとされる刀剣男士、江雪左文字・日向正宗・松井江・骨喰藤四郎・数珠丸恒次※を中心としたグループタグ。
注釈
数珠丸恒次について
厳密には数珠丸恒次は紀州家に伝来したかどうかは定かではなく、有力説の一つとされている。
骨喰藤四郎について
骨喰藤四郎は、明暦の大火で焼刃し再場された後、明治維新ごろまで伝来し、明治2年に徳川宗家に返還されている。
江雪左文字、日向正宗、松井江について
昭和初期ごろ競売で売りに出されるまで、240年以上という、かなり長期にわたって共に伝来している。
松井江と日向正宗がミュージカルで共に出陣し、接点も濃いが、江雪左文字については公式もほとんど触れておらず、紀州家の第一刀の重宝であったことを知らないファンも少なくない。
そのため、最近では紀州徳川組というと、ミュージカルの影響か松井江と日向正宗の二振のみを指されることが多い。
実装済み刀剣男士
江雪左文字
後北条家家臣の板部岡江雪斎の佩刀として有名な太刀。
江雪斎は、後北条衰退後、その手腕と才能をきにいられ豊臣秀吉に仕え、秀吉の死後は徳川家康の御伽衆となる。
江雪左文字は徳川家にわたるが、秀吉から家康の手に渡ったとも、御伽衆となった際に献上されたともいわれており、いくつか説がある。
その後、家康の末子徳川頼宣へと与えられる。
頼宣は紀州徳川の初代藩主となり、以来、江雪左文字は紀州徳川家の第一刀として、伝来される。その扱いは、紀伊家随一の宝刀として、天守閣に保管され、毎日お小姓衆が交代で番をしていたといわれるほど。
鑑定のものが近づいても、手に触れさせることがなかったという話も残っている。
現在は国宝に指定されており、現在は福山市が所有、ふくやま美術館に保管されている。
日向正宗
歴代持ち主に、石田三成、福山初代藩主・水野忠勝と非常に有名な人物が多い短刀。
光成は、娘婿であった大垣城主・福原長堯にこの短刀を送ったが、忠勝がこれを大垣城攻を責めた際に奪ったとされている。
水野忠勝は、非常に優秀な 武将といわれており、島原の乱では唯一福山藩として、九州の外からの出陣を依頼されたほど。
その後、時期は不明だが、水野勝成が借金のカタに、この短刀を紀州徳川家に手渡したとされる。
そんな非常に優秀で名を馳せた水野忠勝の武家官位・日向守にちなみ日向正宗と名付けられ、以来紀州徳川家に戦後の競売で売りに出されるまで、長い間伝来することとなった。
現在は国宝指定されており、公益財団三井文庫が所有、三井記念美術館に保管されている。
松井江
「郷とお化けは見たことがない」と称されるほど、伝説の刀工とされる郷義弘が打ったとされる打刀。
肥後細川家初代から四代にわたって仕えた、細川家の筆頭家老・松井興長の佩刀だったが故にこの名がつけられた。松井興長は、非常に頭が良く実務・戦ともに優秀な武将として有名で、その言い伝えは刀剣男士・松井江にも反映されている。
松井江は、いつのころから家康の手元にわたっているが、時期は不明。
松井興長が八代城に入場した際、献上されたのではないかという説が、今のところ有力である。
その後、五代将軍綱吉の娘・鶴姫の輿入れの際、引き出物として紀州徳川家に送られて以降、競売にかけられるまで伝来した。
その際、本阿弥家の鑑定により正式に郷義弘の作刀と極められ、刷り上げらたのち朱漆で銘を入れられた。
また、八代市の松井文庫には本刀の鞘が残っており、松井江とぴたりと一致したことからこの伝承の確かさが証明された。