概要
松任谷由実がシンガーソングライターとしてデビュー(当時18歳)から、1976年の結婚までの間に使用してきた名義。
略歴
デビュー以前
14歳の頃からプロのスタジオでピアノを演奏し、スタジオミュージシャンとして活躍して。15歳で作詞家、17歳で作曲家としてデビューを果たす。
既にこの頃には後に語り継がれる事になる『ひこうき雲』、『そのまま』など、複数の楽曲を作り上げていた。
デビュー~アルバム『ひこうき雲』
1972年、アルファレコードよりシングル『返事はいらない』で、シンガーソングライターとしてデビューする。
本人は作曲家志望だったが、「シンガーソングライターの方が話題になるから」というプロデューサーの意向によりシンガーソングライターとしてデビューする事に。尚、同曲は300枚しか売れなかった。
翌1973年、19歳でアルバム「ひこうき雲」をリリース。発売と同時にラジオで話題となり、暗鬱で庶民的なフォークソングとは一線を画した都会的な歌詞と明るいメロディ(後のニューミュージックと呼ばれるジャンルの楽曲)が支持される。
アルバム『MISSLIM』~アルバム『COBALT HOUR』
1974年、20歳の時にアルバム『MISSLIM』をリリース。1989年に公開された『魔女の宅急便』の主題歌として脚光を浴びる『やさしさに包まれたなら』も収録されている。収録曲『海を見ていた午後』の洗練された歌詞が話題を呼び、ヒットを記録。
1975年、21歳の時にアルバム『COBALT HOUR』をリリース。魔女の宅急便の挿入歌『ルージュの伝言』、卒業ソングの定番『卒業写真』など、語り継がれる楽曲が複数収録されている。その後、フォークグループのバンバンに提供した楽曲、『「いちご白書」を、もう一度』が週間ランキングで初の1位を獲得し、大ヒットを記録。
作詞、作曲を手掛けた彼女の知名度が広まり、同年にリリースしたシングル『あの日にかえりたい』は合計で4週1位を獲得する大ヒットを記録。
結婚~アルバム『14番目の月』
その年、彼女のプロデューサーを勤めていた松任谷正隆との婚約を発表。翌1976年、シングル『翳りゆく部屋』は荒井由実名義でのラストシングルとなる(後に椎名林檎がカバーした)。
同年、22歳の頃、アルバム『14番目の月』がリリース。大ヒットしたシングル『あの日にかえりたい』や『翳りゆく部屋』は収録されず、完全新作、及び荒井由実の引退作品と銘打たれた。
アルバム発表後、松任谷正隆と結婚し、翌年、松任谷由実として再デビューを果たす。
実績
荒井由実として活動していた時期は18歳のデビューから22歳で結婚するまでの僅か四年程しかなく、これは彼女の40年以上のキャリアの10分の1でしかないが、この時代に与えた音楽界への影響は計り知れない。
- 当時のフォーク界は庶民的で暗い楽曲が主に支持されていた。しかし、彼女は当時のフォークソングを「貧乏臭い」と四畳半フォークと呼んで蔑み、都会的でハイソなサウンドにチャレンジして成功を収めた。彼女が始めたこのサウンドはニューミュージックと名付けられ、このジャンルは現在も音楽シーンのメインに根付いている。
- バブルの時代に爆発的に売れた時代と比べると、セールス面での成功は少ないが、『卒業写真』や『やさしさに包まれたなら』、『ルージュの伝言』など、時を経て再評価される作品が多いのが特徴で、最近では『風立ちぬ』に起用された『ひこうき雲』が発売から40年を経てiTunesで1位を獲得するという歴史的なリバイバルヒットを記録しており、不意にこの時代の名曲が再評価される機会が訪れる可能性は高い。